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「ECCENTRICS」とは、「変なやつら」の意味である。
幸福でいるのが恐くて、不幸でいる方が落ちつく、そういう連中がひかれあって集まってしまった――だから、変なやつら、という複数形のタイトルがつけられているが、作品を読みすすめるうちに、集まってくるのは偶然でもなんでもなく、必然であるということがわかってくる。
作品は、画廊で千寿が買った比良坂の作品「E」に千寿がひかれた理由と、千寿を二重人格に追い込んだ経緯を比良坂が探る形になっていて、サスペンスタッチである。が、この作品全体で吉野が何を描こうとしたのか、ということは、それぞれの人物の関係性をつかんでいないと、「変な作品」という印象で終わってしまう。
が、変な作品で終わらせないだけ、吉野の作品を読みなれたファンが多いということは、この作者にとってもたいへんな幸いである。
その関係性を確認すると、変な奴らの筆頭として、家出をした主人公の千寿自身、作品が進むにつれて、記憶喪失ではなく、二重人格であるということがわかり、その二重人格も、母親の過干渉に精神がたえきれずに現れたことがわかる。
山田天と劫の双子の兄弟は、それぞれが別の人格であるという自覚がなく、好きな女の子も二人で共有し、女の子も二人を愛することを望む。二人であるが、二人で一人であるという、そうした人格の持ち主なのだ。(C)少女マンガ名作選
そして、画家比良坂は、他人に特別な感情を抱いた経験がない。千寿の母親もまた、誰も愛した経験がないが、千寿が生まれてはじめて人を愛しいと思い、「愛」を千寿の人格を無視して押し付け続けた。
作品を読み終わって、まず印象に残るのは、記憶を失う前の千寿と母親の関係である。千寿は自分の人格を認めず妄信的に愛をそそぐ母親を、狂っていると思っていた。千寿を傷つけた動物は母親に殺され、近所の子供は大きなけがを負うなど、異常なほどの愛情なのだ。しかし母親の言い分としては、すべて娘・千寿の望んだことで、母親はその願望をかなえているだけなのだという。
一瞬、母親が狂っているのか、それとも実際千寿が望んだことなのか、と迷うのだが、母親自身が、他人の誰をも愛せない経歴を持ち、そして自分の子供を愛しているといいながら、人格そのものを認めていない、「利己的な愛」である以上(母親の認める千寿以外を許容しないので一種の虐待である)、母親の方が異常であるといわざるをえない。いや、母親がまず、異常であるのだ。つまりは「同一性障害」であり、自分がからっぽなために誰も愛せなかったのだが、からっぽな自分を埋めるように崇拝する誰か(この場合千寿)をみつけると、狂信的に愛し、その言葉をコピーし、考えそのままに行動して、崇拝する他者と自分の境界があいまいになってしまう。そうした境界のあいまいさが、時としてそれは自分の願望にもかかわらず、他者が望んでいると勝手に解釈(妄想)して、実行に移してしまう。つまり、千寿の母親は、「人格障害」であると言えるかもしれない。
ところがこの同一性障害は、千寿たち母子関係だけに留まっていない。双子の天と劫にも言えることで、彼ら自身、別人格であるという認識がなかった。ところが、千寿と出会い、ミスで、天が恋愛の精神面を引きうけ、劫が肉体面を受け入れるという役割分担が出来てしまうためにその認識は大きく崩れ始める。天だけ囲碁棋士としての成績が落ちるというかつてない「差異」を生み出してしまうのはその一つであるが、天のそうでありたいと願う欲求は、劫がそうでありたいと願う欲求であったはずなのに、劫が満たした欲求は、それが肉体であり、どちらにも同じように適えられないので、天は「劫とは違うのだ」ということを認めなければいけなくなってくる。激しい嫉妬が天の中に生まれ、殺意を生んだ時、それはすなわち同一性障害を起こしている自分にも殺意となって返ってくるし、もしそれによってもう一人の自分が死んでしまえば、生きる意味が失われてしまうのだ。
あいつが望んだから、ということを順繰りにめぐらせて行くと、この登場人物たちには悲劇しか生まれない。自分の死にたいという願望を相手に投影して相手の願望だと解釈したり、自分の殺意の願望を、相手の殺意の願望だと解釈しては、死にたくもない人を死なせてしまい、自分の殺意さえ相手が望んだことだからと正当化して、平気で罪が実行されてしまうことになる。
冒頭で、千寿がホームから線路に落とされた時、落とした本人は、カウンセラー鹿島にそのことを、女の子が押してくれとお願いしたので落としましたと報告している。「今日とても良いことをしました。」とも。
しかし、千寿自体はそんなことをお願いしていない。その犯人は、自分の死にたいという欲求を、別の人が「死にたい」と望んでいると妄想し、自己の欲求を他者の欲求へとすり替えてしまっている。
「ECCENTRICS」の作品の中で起こる犯罪とは、いつもこんな風にして行われる。そして、それは誰が望んだものなのか、実にあいまいに、描かれているのだ。
「あいつが望んでいるので、ホームから突き落としました。」=「私を誰かホームから突き落としてほしい。」
「あいつを殺したい」=「自分を殺したい」
「少年は荒野をめざす」の黄味島陸と狩野都、「ジュリエットの卵」の蛍と水、そして「ECCENTRICS」での天と劫、二人の千寿。
どの物語もいつも、「他者との関係性の中での自己」を問いつづけている。が、その疑問はいつも、「私は誰だろう。」という疑問へと行き着く。価値も、常識も、そして自分自身も、時としてあいまいな現代にあって、だからこそ、吉野作品にひきこまれずにはいられない。
こうした作品たちに描かれた人たちは、作品として装飾されているにせよ、決して特別ではない。私たちの身近に、あるいは自分の中に、多かれ少なかれ確実にいる人達であると思う。
一番大切なのは、「自分」をしっかり持つということなのだ。持っていなければ、それを獲得する努力に走らなければいけない。
自分をみつめよう。