第八章

 昨日きた、元婚約者吉本広ニの勤める病院の待合室で、千尋は午前の診察時間が終わるのを待っていた。時計は十二時少し前、午前の診察受け付けが終わる十一時半に間に合うように出てきたのだったが、受け付けに申し出た時は、「ただいま診察中ですので、よろしければおかけになってお待ちください」と言われたのみで、それ以上の応対はなかった。
 大学病院に比べれば、病院の規模はずっと小さい。薬局、受け付け、内科、X線科、外科、脳神経外科、リハビリ室、が、広い待合室を取り囲む格好で位置している。千尋は内科の診察室前で待っていたのだが、担当医欄の今日は、吉本となっている。確かに、出勤しているのだ。
 果たして、この先生から、何が聞き出せるだろう。記憶喪失になったがために、周囲に反対されていたのを押し切ってまで結婚しようとしたその婚約者が、結婚式直前になって行方不明に――逃げてしまったのだ。
「あたしって、もしかしたらひどい女かも。」
と、行きの電車の中で思いつき、ぞっとした。その気まずさから、できればもう、会いたくない、会わなくても事は解決できるのではないかとさえ思ったが、やはり、何か手がかりがあるのではないかと思うと、来ずにはいられなかった。
 やはりお許しにならないのですね――千尋が吉本と同乗していた車から去る時に残した、せりふ、それが、一体どうして千尋の口から出てきたのか、一体過去に何があったのか、彼女は知らなければいけないと思った。何か思い出そうとすれば思い出せそうなのに、何かがのど元にひっかかっているように、千尋の頭の中からは、容易に記憶は流れ出そうとはしなかった。
 昨晩、――あの事件があって、森本に家に連れ帰られた後、彼は、これまでの千尋の経緯を話してくれた。劇場S.T.Cの裏で、花の植木鉢が降ってきた、あれが、故意か過失かを判断することも含めて、千尋が不安をのぞくために必要とする過去なのだ。
 あの後、柴野は坂城にちゃんと報告に行ってくれたらしく、すぐに坂城は裏手に飛んできた。が、柴野は用事があるから帰ったとかで、その後現れることはなかった。坂城が噴水広場にやってくる頃には、千尋の恐慌もずいぶん収まっていたが、坂城は状況を森本からききながら、落ちて壊れた花の鉢を見、元置いてあった位置を見上げると、劇場裏手の階段をかけあがっていった。下から二人と、他にかけつけてきた劇団員が見上げていると、坂城は手すりに、植木鉢が置いてあったところからヒョイと顔を出し、しばらくその植木鉢が置いてあった位置と、落下地点を見比べ、それから手すりの部分をじっとみつめた。手すりといっても、セメントで出来ていて、幅は三十センチ近くある。植木鉢の底はせいぜい十五センチと行ったところだから、安定性に問題はない。それで坂城はその位置から建物の周囲をキョロキョロと見まわしたが、突風が吹き込んでくるような構造でもない。ある程度重さがある植木鉢を落とすには、台風なみの風が吹かなければ、無理だ。そして、地面のあの、落ちた位置――ここからの、距離。
 坂城は、しぶい顔をして、階段を降りてきた。
 無言のままで、森本を見つめるその顔色を見れば、坂城が言葉に困っていることが即座にわかった。森本も、坂城の言葉を聞かずとも、彼の推測したことは大体見当がついた。
「とりあえず」と坂城は切り出した。「あの鉢は全部下しとくよ。管理人の趣味で置いてるだけだし、落ちた分も掃除させなきゃいけないし、管理人に言っておく」そう言って言葉を切ると、千尋の顔をうかがい、「本当にケガなかったか?」と尋ねた。
 千尋が無言でうなずくと、坂城はにっこり笑い、千尋の頭に手をのせ、
「わーはっはっはっは、結婚式が近いのに、これ以上バカになったら困るよなあ!」
と磊落に笑った。
 それから周囲にいる劇団員に「おい、戻るぞ」と声をかけると、去り際森本に、「近いうち電話するわ」と声をかけて、その場を去った。
 それで残された千尋と森本は、そろって植木鉢をみつめた。千尋が森本を見上げると、森本は気まずそうに視線をそらせた。
「何か思い出したか」
森本が視線をそらせたまま声をかけると、千尋は慌てて首を横に振った。
「でも、」と千尋は言葉をついだ。「なんで婚約者だなんて、黙ってたの?」
千尋の問いに、森本は首を傾げて笑った。
「俺のことぐらい、すぐ思い出してくれるかと思った。」
その言葉に千尋は、すまなそうにうつむいた。と、森本は、「なんてね」と言葉をつけたし、
「病院の方はどうだった? 先生に会えたか?」
「ううん、日曜だからいなかった。明日また来てくれたら、いるはずだって。」
「そうか…。じゃあ、しょうがないな。」森本はため息をつくと、「とにかく今日は疲れたろ、続きは明日にして、もう家帰って休もう。家帰ったら、いろいろ、おれの知る限りで、話さなかったことも話してやるよ。」
 そう言って、森本は、しょげた千尋の背中を軽くたたいた。
 
 池野さん、と呼ばれたような気がして、千尋は顔を上げた。顔を上げると看護婦がこちらをうかがっている。その看護婦が振りかえると、向こうのドアから青年医師が一人、こちらをうかがっていた。医師は千尋の顔を認めると、ドアから待合室を出て千尋に歩み寄ってきた。
 感情を押し殺したような表情で、あの時小此木未散が説明したとおり、髪は短く刈り、フレームレスの眼鏡をかけていた。結婚式場の書類通りなら、今年三十一のはずだが、それよりずっと若く見える。千尋は一瞬、その容姿にみとれた。が、医師はすかさず千尋の腕をつかみ「来てくれないか?」というと、千尋を病室へと向かうエレベーターの横にある、非常階段のドアの内側へと引っ張って行った。
 千尋の腕をつかむ力があまりに強かったので、千尋は思わず顔をしかめた。非常階段の扉は重い鉄の扉で、階段の中と外を完全に遮断してしまう。昨日この階段を上った時は気づかなかったが、薄暗い電灯があるばかりで窓さえなく、空気が滞っていた。
「何しに来た。」
吉本は腕をつかんだまま千尋に尋ねた。
 千尋が彼の顔を見上げると、彼の顔は高揚して、目が微かに潤んでいる。
「ごめんなさい。あの…」
「今更何しに来たんだ。車が事故を起こしたのをいいことに…」
いいかけて、彼は言葉を切った。不審に思って千尋が彼の顔をみつめると、彼は唇をかみしめていた。
「違うんです。」
「何が違うんだ。あの後、きみがいなくなって、どれだけ探したと思うんだ。今日だって、今日だって、別に会いたくはなかったのに、看護婦が…」
風通しの悪い階段で、暑いせいばかりではなく、彼は確かに小さく息切れしていた。それが、暑さのせいばかりではない、ということは、彼の放つ空気で察せられた。やはり彼は、気持ちがひどく高ぶっているのだ。
 千尋は彼に向き合って、両腕で彼を引き止める姿勢になり、
「ね、落ちついて、きいてくれませんか。あの…。」
「落ちついてきいてくれだって? ぼくのどこが…」
「私、あの、こう、言ったら言い訳がましくきこえるかもしれないけど、き、記憶をあの時、なく、なくし…」
「記憶を亡くした?」言いながら彼は鼻で大きく笑うと、「記憶を亡くしたって言いたいのか? あの事故の時に。それで、僕の前から、いなくなったって…。誰が、そんな話…」
「いえ、あの、すぐには信じられないかもしれないけど」
「信じるもんか! だって、あの後」
言いかけたところで、彼はしまった、という風に言葉を切った。思わず口に出てしまった言葉に、彼は思わず口元を抑えた。
「あの後、何です?」
問いただしたが、彼は言葉を継ごうとしない。千尋が問いかける眼差しに堪えられず、彼は目をそらせた。
「あの後、きみを探して、探して、失踪したと思ったんだ。もちろん、警察にも届けた。それで、きみの部屋の家賃を精算に行った時、管理会社の人にきいた。劇団の人がきみのことについて尋ねてきたって。僕は、その劇団に、もしかしたら君がいるんじゃないかって、訪ねて行ったんだ。」
「え、その時、何か…?」
「何も言わなかった。声なんてかけなかった。でも…」彼は息を大きく吐いた。「劇場の入り口からきみを見ながら、きみにはもう、僕はいらないんだと思った。」
「え、なん、何でですか?」
「生き生きとして、楽しそうだった。結婚をほったらかして、きみがやりたいのは、これだったんだって、思ったんだ。」
 表情も口調も、淡々としているのに、目の前の彼から、なぜだろう、どうしようもない哀しみがやってきて、でも彼がそれを抑えようとしているのがよくわかる。通気の悪い階段室の中で、千尋はじんわりと汗がにじむのを感じた。
「ごめんなさい、あの、ごめんなさい、あたし、何にも知らなくて、あの、実は、ついこの間また、記憶喪失になって、って言うと、マンガみたいでバカみたいなんだけど、あの、嘘じゃなくて」
「何しに来たんだ?」
「え?」
「記憶喪失になったって、それで、どうして僕のところへ来る必要があるんだ?」
「未散…クラブ・ミリオンの未散さんに聞いたんです。それで、あの、あたしが最後に、言ったっていう、車で事故を起こして、その後に、あたしが『主よ、やはりお許しにならないのですね』って言ったって。未散さんは、幸福になるのを許さない意味だって、」
「ああ…」
「なぜ、お許しにならないんですか?」
彼は拳を握り締めたまま、眼を固く閉じて千尋に答えようとしない。千尋は必死の顔になって、
「あの、何かご存知なら、教えていただけませんか。あ、あなたには、その、ご迷惑かけて、申し訳ないんですけど、あたしも、その…」
「きみの、過去なんていらない」彼は淡々とした口調で、話し始めた。「『きみの過去なんていらない。僕には、今のきみが必要なんだ。残された君の未来を、すべて僕にくれないか』、それが、ぼくのプロポーズの言葉だった。ぼくは、あの病院で、初めて出会った時より前の、きみを知らない。簡単な生い立ちをきみの口から簡単に聞かされただけで、敢えてそれ以上きこうともしなかった。」
うつむいて話ながら、左手で顔を覆うように眼鏡を上げた。
「お役に立てなくて申し訳ないが…。」
彼はドアの取っ手に右手をかけた。
「他に用事がないなら帰ってくれないか。」
言葉を継げずに千尋は黙って、開けたドアを片手でささえて立っている彼の姿を、彼の横をすりぬける時に盗み見た。と、彼の目は視線を下げている。視線の先を目で追った。それで、ふと思いついて、
「あの、婚約指輪。せめて、指輪だけでもお返しします。探せば、出てくると思いますし、未散さんの話だと、とても高価なものだってきいたんで」
「帰ってくれ!」
彼は思わず怒鳴って、ハッと我に返った。それから取り繕うように言葉を探すと、明らかに自嘲の色を顔に浮かべて口元は笑いながら、
「指輪は、宝物にするからと言って、きみは余程の時以外は、はめずに仕舞ってた。きみは、派手につくっていても、そういう人だった。きみがいなくなってから、もう必要ないと思ったから、ぼくが、処分した。」
千尋は待合室のフロアで薬局や受け付けの人の視線に気がついて、我に返った。それから、ここにはもうこれ以上いてはならないのだと思うと、一度吉本の顔を見上げたが、彼は視線を下げたまま千尋の方を見もしなかった。千尋はそのまま「失礼します」と頭を下げると、一目散に病院の入り口へと歩き出した。
 後ろも振りかえらずに、心の中で、急げ、急げ、と命令する。
 病院の入り口を抜けると、本当の熱気が、千尋の体に押し寄せた。
 今年は、湿度が高くていけない。息が、つまりそうで――
 病院からかなり離れて、歩いてきた歩道の上で千尋は立ち止まった。分離帯が対抗車線を分ける道路で、歩道の脇には商店や民家、マンションなどが立ち並んでいる。
 彼女は立ち止まった。それから、振りかえった。追ってくるものなど、ないから、それで抑えてきたものを解き放つように、彼女はそこにしゃがみこんだ。感情の波で、耐えきれない。彼は、淡々としゃべっていた。ほとんど、声を荒げることもなかった。それなのに、なぜだろう、どうして、こんなにたまらないのだろう。思うと同時に、激しい胸の痛みが、彼女を襲った。
 思わず、両手で顔を覆う。
 あと何回、なくした記憶でこんな思いをしなければならないのだろう――
 主は――主よ、なぜ、お許しに――…
 
 森本が診察室に入って行くと、机の前にすわった医師は、少し動揺して、それから、
「一人ですか? 千尋さんは?」
「申し訳ありません、僕では、だめですか?」
「いや、一向に構いませんです。しかし、まあ、どうしました、あなたお一人で来られるなんて、珍しい――まあ、おかけなさい。」
森本は医師にいすを進められて、すぐ前の椅子に腰を下した。
「それで? 今日は?」
医師が森本の顔をみつめながらそう言うと、
「それが、その、あいつは…」
と森本が口ごもりながら答えるので、医師はいたづらっぽく笑って、
「どうしました、喧嘩でもしましたか。でも、千尋さんが、治療をすっぽかすとも思えませんが…」
言われて、森本は、口を開いた。
「すいません、あいつ、また…」
 それで森本は、今までのいきさつを――、車を運転していたら、途中で突然千尋が叫び声を上げ、意識をなくし、家に運んで気がついたら記憶を失っていたこと、結婚式場の写真を見せて、自分との式場に気がついてくれるかと思ったら、別の式場のことを思い出し、自分の知らない婚約者と結婚するはずだった事実を知らされたこと、記憶を失う前はクラブでホステスをしていたことがわかったということ、今日は元婚約者に会いにいったこと、などを話した。
 黙って話をきいていた医師に、森本は恐縮しながら、
「すいません、一番に先生にご相談すべきだったんでしょうが…」
表情のない顔で考えこんでいた医師は、森本の言葉にふと我に返り、「いやいや」と取り繕うように笑って、
「そんなことはありません。あなたにはあなたの、お考えがあったんでしょうから。」
医師はそう言って、森本に向かい合わせて腕を組み、それから足も組んだ。
 医師――常喜正美は、それが考えこむ時の彼の癖なのか、伏し目になって動かなくなった。紳士というのとはほど遠い風貌で、はげかかっているのかとも思えるほど、広い額は、真実相当後退しているのかもしれない。中年太りにさしかかっているのかとも思える体格だが、元々何かの運動をしていたようで、多少太ってみえても、それはやはり鍛えられた筋肉が相当手伝っているらしかった。髭は生やしていなかったが、生やしたら町医者風になってよかろうに、と森本はよく思う。言葉遣いばかりが紳士なので、時に変な感じを受ける。この人もまた、劇団「絶対零度」のオーナー園山隆史の紹介によるのだったが、「その筋に関しちゃ確かだよ」という言葉を信用して彼を頼ったのだった。その実確かに千尋は記憶を取り戻しかけていたし、あともう一歩というところでこの体たらく、というのが実際だった。
「その…」と常喜医師は言ってから、一呼吸おき、「場所はどこだったんです? 千尋さんが取り乱した、という場所なんですが…」
「それが、もう一度同じルートを走ってみればわかるとは思うんですが、でも、福生市のどこかだったと思いますよ。あの辺を通過している時に…」
「福生といえば」
「そうです、千尋の母親が池野氏と結婚した後に住んでいた町ですね。」
「そこで突然取り乱し、また記憶喪失になった。」
「そうです。――先生、」
「はい。」
「その場所を、具体的に調べても」
「もちろん結構です。」
「場所をきちんと調べてから、もう一度千尋を連れていくかご相談にうかがおうと思います。」
医師は軽くうなずいた。
 それから、「今回の記憶喪失は」と付け足した。
「今回の記憶喪失は、今までの治療の成果ですよ、きっと。あなたが思うような、元の木阿弥ではないのではないでしょうか。」
「え?」
「千尋さんは生きていくには耐えがたい過去を、生きていくために自分で消してしまった。その過去を、思い出して、また忘れてしまった、ということは、十九才の春から二十一才の春まで、彼女が思い出せない最後の部分、そこに、一番思い出したくない、喪失の最大の原因があるということですよ。そしてその解答は、やはり福生にあったということではないですか。彼女はなぜ、大病院の養女から、クラブのホステスになっていたのか。どうして交通事故で、記憶を失ってしまったのか。その、信仰ですか? ホステス時代の。」
「ええ。」
「どうして、信仰を深めるに至ったのか。」
常喜の声は低いが深くてよく通る。その常喜の話をききながら、千尋との昨日の夜の会話を思い出していた。
 もし、殺人者だったら、どうするの?――と。

 昨日は劇場から、一直線に自宅マンションに戻った。千尋が傍目にとても疲れていることがわかったというのが、一番の理由だった。千尋自身、体よりも精神的な疲労が激しかったといった感じで、特に劇場の裏で植木鉢が落ちてきたことは相当ショックらしかった。――おびえている、と言ってさえよかった。
 森本はその夜、千尋にわかっていることで、差し障りのないことだけを、かいつまんで説明してみせた。
 千尋の本当の父親は、千尋が小学校の時に亡くなっていること、母親はその後開業医をしている池野氏に嫁いで、千尋も養女となり、幸福な結婚生活を送ったこと。しかし、その両親も千尋が高校三年生の時に交通事故で他界してしまったこと。
 書類と、治療によって取り戻した記憶はここまでで、後は劇団にやってきた千尋と、その劇団に派遣されていた森本が出会い、劇団で主役争いに破れた千尋を、今の会社を創設する時に誘い、今度の十九日には結婚式を挙げる予定である。
 それまで静かに話をきいていた千尋は、結婚式のところで急に目が覚めたような顔になって、
「本当にするの?」
と森本に尋ねた。
「え?」
「結婚式。」
森本はふと笑ってみせて、
「そりゃ、当然でしょう。」
「当然? 何が当然なの?」
千尋は食いかかるように森本に言葉を投げた。別に今に始まったことではないが、時に千尋は興奮すると、向い合わせの食卓を乗り越えてくるのではないかと思うほど勢いがいい。そのたびに、森本はなだめるようにいいきかせるのだ。
「だから、日付は決まってるんだし、準備だって出来てるし、」
「でも、記憶がないのよ。ここにいる私と、違う私が出てきたらどうするの? 現に、ホステスしてたことも知らなかったじゃない。」
「でも、今は違うじゃないか。」
「将来またそうならない保障がどこにあるの?」
千尋が真顔で尋ねるので、森本はその顔を見ながら少しあきれて、
「お前自分で言ってることわかってるのか?」
「わかってるわよ!」
千尋が鼻息荒く言いきったので、それを見て森本は反射的に吹き出してしまった。
「何よ、なんで笑うのよ!」
森本がうつむいたまま腹を抑え、いかにも笑うのをこらえて「悪い悪い」とこちらに手の平を見せるので、千尋は机に乗り出した体を椅子に預けて、
「ねえ」
と森本に声をかけた。
「ねえ、きいてるの?」
森本が姿勢を元に戻さないので、千尋はまた机に体を乗り出し、
「ちょっと、いつまで笑ってんのよ! 人の話聞きなさいよ!」
言ったところで森本は「はいはい、悪い悪い」と言いながら、ようやく顔をあげた。
「ねえ、プロポーズは、記憶喪失の診察を受ける前なの? 後なの?」
「前だよ。」
「前? あっきれた!」
「君の記憶が戻るのを待っていたら、何年かかるかわからない。もしかしたら、一生戻らないかもしれない。それなら結婚して、二人でゆっくり探してもいいじゃないかと思ったんだ。」
「じゃあ、もし、殺人者だったら、どうするの?」 
「かまやしないさ。」
「いいかげん!」
「いいかげんじゃないよ。それくらいの覚悟は、出来てるってことさ。」
森本が両指を机の上で組んで、真面目な顔をした。
 千尋は勢いをそがれてしまって、乗り出した体を、また椅子の背もたれに預けた。
「ご両親はなんて言ってるの?」
「両親はきみのこと気に入ってる。人間の元からの性質なんて、そう変わるものじゃない、――ぼくも両親のこの意見には賛成だね。だからお前たちのやりたいように進めればいいって。こうも言ってた。よほど辛いことがあったから、記憶を失ってしまったんだろう、可愛そうなことしたねって。」
「あなたに?」
「ぼくにじゃないよ。きみに直接言ってたんだ。」
千尋は言葉を継がなかった。
 机の上に視線を落とし、息消沈した風情になったので、
「だからね、よけい今、もう結婚式を中止するわけにはいかないんだよ。招待状も出してる。式場も押さえてる。今記憶を失って、中止して、戻ったから、はい、また、という具合には行かないんだよ。きみ自身しっくりこないのはよくわかる。でも、式は挙げてくれないか。もちろん今の調査は続行してくれてもいい。それが一段落ついたらでも、君の気が向いた時でもいい、常喜先生のところに診察を受けにでかけたらいい。とりあえず、式には出てほしいんだ。僕を受け入れるか、受け入れないかは、別に後で考えて判断したらいい。」

「それで彼女はなんて?」
森本の話を黙ってきいていた医師は、森本がそこまでしゃべって黙ってしまったので、続きを促した。常喜の言葉に「ああ」と我に返った森本は、
「『わかった』そうですよ。今できることを、しなければ仕方ないからって。」
医師はその言葉をきいて穏やかに笑った。
「彼女は強い。」
それで森本は、また「え」と顔を上げ、改めて常喜の顔を見た。
「彼女は強い。いや、我慢強いんでしょうか。感情を抑えるのが癖になっていると言った方が正解かもしれませんね。」
「机たたいて怒りますよ。」
森本の言葉に、常喜は苦笑した。
「でも、わがままを通してとか、そういうことでもないでしょう?」
常喜にそう言われて、森本は記憶の中を探った。
「ええ、そう、かもしれません。」
医師はその言葉をきいて、今度はにっこりと笑った。そして、組んだ腕と足を解くと、
「理解してあげることです。今まで何度も言いましたが。」
医師は広げた両膝の上に、広げた両手をついて、森本に向き直った。
「理解してあげることです。ごまかすのではなく、本当に彼女を理解してあげること、そうでなければ、彼女の心は開きません。あなたに、信用はない、と言えるかもしれませんね。記憶を解く、ということは、心を解く、ということ、違いますか。」
森本は返す言葉がなくて、所在なげに笑った。その森本を見て、医師は手応えのなさに首を傾げると、話題を変えた。
「今日は、じゃあ千尋さんは、元婚約者の所へ?」
森本はむっとした。こういう話の展開の仕方はどこかのどいつにそっくりだと思いながら、「そうです」と答えた。
「あなたも一緒にお行きになったらよろしかったのに。」
常喜はいたずらっぽく笑った。その笑顔に森本は「ハハ」と笑うと、常喜も声を出して「フフフ」と笑った。森本は引きつった顔で常喜をみると、
「ご冗談でしょう?」
「冗談ですよ。」
常喜はだらしなく背中を椅子の背もたれにあてて、机の上に肩肘をついた。
「でも、本当に、千尋さんが何か犯罪にでもかかわっていたら、どうするつもりなんです?」
「その時はその時ですよ。」
「覚悟はできている、と。」
「まあ、そうですね。」
常喜は椅子に正しく座りなおして、
「”死が二人を分かつまで”、ですか?」
「まあ、そうですね。でも…」森本は一呼吸置いて「うちは神式なので、その誓いはありませんが。」
その言葉に常喜は、真顔のまま吹き出した。
 わーはっはっはと、笑いながら、
「そう、むくれんでくださいよ。」
「むくれてません!」
森本が大きな声で、そう言うと、常喜は声を上げて笑い始めた。

 常喜クリニックから、森本は福生に車で直行することにした。時計を見ると昼を少し過ぎたところで、今ごろは、千尋は元婚約者に会っている頃だろうか、などと考えた。今日はその婚約者に会ったら、それ以降どうするとも彼女は言っていなかったから、昼過ぎには戻って来るだろう。今日は半日家でゆっくりさせることに決めて、それまでには、家に帰ろうなどと思って、車を出した。
 常喜医師は、元の木阿弥ではない、と言ったが、ではこの間までかかって取り戻した記憶の断片は、一体どこに行ったのだろう。亡くしてしまった記憶は一度期に戻るのだろうか。それとも、あれと同じだけの時間をかけなければ、いけないのだろうか。
 福生には、森本自体は何度も行った。しかし、千尋自身は行くことを何度もいやがった。十八までは、確実に住んでいたところなのだ。しかし、いやがるわりには、実際に連れていったところでそれらしい反応は示さず、記憶はもっぱら、常喜クリニックでばかり取り戻された。
「無駄なことではないんですよ。彼女自身、何も感じないように見えても、たいへんな刺激になっているはずです。」
常喜はそう言った。確かに、福生に行った後、千尋は必ず中学や高校時代の楽しかった思い出を話した。それはしかし、楽しかった思い出ばかりで、それ以上、記憶を失った原因を探る何ものもないような気がした。
 記憶は、つい最近になって、千尋の子供時代にまで遡っていた。父親は完全なアルコール中毒で、あまり楽しい子供時代ではなかったことがわかる。ろくに稼ぐこともせず、東京の下町で二間のアパートに、親子三人で暮らしていたらしい。だからこそ、母親が池野氏と再婚したことは、千尋にとってこの上もない幸福な出来事だと思ったのだろう。事実、彼らは幸福だったに違いない。彼女の二度の結婚は、母親と池野氏の結婚記念日に設定されていたし、千尋は何度も、記憶の中でその生活を繰り返した。
 池野氏は紳士で、飲んでは暴力をふるう実の父親とは正反対の人だったらしい。実父はそれどころか、彼女の記憶の中から消し去りたい禁忌な存在でもあったらしいのだ。一度、記憶をたどりながら、千尋が泣き出したことさえあった。
 確かその泣き出し日、記憶の中で千尋は、学校から帰って来てすぐ、母親に外に出ていなさい、といわれたのだと言う。そういう時は、父親が母親に暴力を振るう日なのだ。それはまるで、儀式のように、夫婦の間で繰り返された。千尋はランドセルを置いて、家の外に出ようとした。が、その時、台所と食堂を兼ねた玄関の部屋へ、居間に使っている部屋から父親が現れたのだ。
「おい、千尋、どこへ行くんだ。」
その日に限って、千尋は父親に声をかけられた。酒臭いだけでなく、目の落ち窪んだ父親は、どう見ても病的で恐ろしかった。
「外に、友達と約束してるから…」
「嘘言え、お前今、お母さんに外に出ていなさいと言われただろう。」
暗くて狭い部屋で、父親がやたらと大きく見えた、と、千尋は話したのだ。
――
「そう、それで千尋ちゃんは、何て答えたの?」
いつものように、まるで娘に父親が話しかけるように、常喜医師は優しく語りかけた。
「何も、答えなかった。」
言いながら、話す千尋の体が震え始めた。すると、常喜は千尋の両手を握り、「大丈夫、大丈夫だからね」と声をかけた。
「そう、千尋ちゃんは、その時お父さんが怖かったんだね。」
「うん。だって、今にも殴りそうだったの。目が、目が普通じゃなかったし。」
催眠状態の千尋は、ガクガクと震え出した。横にいる森本が、千尋の体に触れようとしたが、常喜は目で「NO」の合図を送った。
「お父さんは、その時千尋ちゃんに何かしたのかな?」
「ううん、何もしなかった。でも、その時お母さんが…」
「お母さんが?」
「お母さんが、隣の部屋から出てきたの。あたしとお父さんが話してるのに気がついて。お母さんは、血相を変えて出てきた。あなた、あなた、千尋に一体何をって。でも、お父さんにはそれが気に入らなかったらしくて、お前、俺が娘に何をしたって言うんだ。それから、ちょっと言い争いになった。」
話す千尋の目から、涙が一しずく、こぼれた。涙は一滴こぼれると、次から次へと頬を伝って落ちて行く。
「そう、それで、千尋ちゃんは、その時どうしたの? 話せるかな?」
千尋はしゃくりあげながら、うん、とうなずいた。
「あたし、逃げようと思ったの。お母さんの『逃げなさい』って声がきこえたし…でも、次の瞬間、何か白い塊が飛んできて、目の前が真っ暗になったの。」
「目の前が? それ、何かわかる?」
「白い塊は、後でお父さんに殴られたお母さんの体が飛んできた、その腕だってわかった。目の前が真っ暗になったのは、その時反動で、あたしがおでこを水屋の角にぶつけたの。その時おでこが切れて、血が目に入って見えなくなったの。」
千尋の目から滴がこぼれるのがおさまった。途端に彼女の体は何も表情を作らなくなったので、常喜が、
「そう、それで、その後どうなったのかな」
言葉を促した。
「あたしがぶつかったとき、水屋が揺れて中のお茶碗が割れたりしたの。音があんまり大きかったから、近所のおばさんが飛んできて、それで病院に連れてってくれた。」
「そう、よかったね。大事は、なかったんだね?」
常喜はそう問うたが、千尋は黙ったまま答えなかった。常喜は千尋から返事が得られないので、次の言葉をかけようと思った、が、その瞬間、千尋が言葉を発した。
「あったわ。その日じゃなかったけど、それからずっと後になって、お父さん、入院したの。」
「え? 入院? お父さん、どうされたの?」
千尋はまた口を結んだ。唇をかみ締めて、眉間に強くしわを寄せるので、常喜は思わず、
「苦しいんだったら、無理をしなくていいんだよ。」
そう言ったが、千尋は続けて、
「癌になっちゃったのよ。肝臓の。みつけた時はもう手遅れで、若いから進行が早かったの。転移して、半年もしないうちに死んじゃった。」
「そう、それは、大変だったね。」
「そう、そう、大変だったの。入院して、何回も手術して、お葬式して、とっても大変だった。でもね、それ、それ全部、あたしのせいなのよ。」
「え? 千尋ちゃんの?」
「そう」
「どうして千尋ちゃんのせいなの?」
「だって、あたし、水屋におでこをぶつけられた日、ううん、それまでも何度も思ったけど、その時は、心から、思ったの。」
「心から?」
「そうよ。」
言いながら、また、千尋の閉じられた瞼から、頬を伝って涙がこぼれ落ちた。千尋はしばらく、その涙をこらえているように唇も目も固く閉じていたが、息を「はあッ」と強く吐き出すと、
「あたし、祈ったの。お父さんなんて、お父さんなんて、死んでしまえばいい、――って。」