第二章

「え? 記憶喪失?」
結婚式場の受付にすわっていた若い男の係員は、森本の言葉をきくと、一瞬狐につままれたような顔をして、口をポカンと開けた。それから首をゆるりと傾けると、ふと困ったように笑って、
「記憶喪失ですか?」
 横にいる千尋は、どこかわからない気まずさを感じた。土曜日だから式場が混むだろうと、森本に早く起こされて出て来たのだが、それでも準備で早く来ている結婚式の親族などがまばらにいるらしい。だが受付は玄関から入ってすぐの一室が別に当てられているので、廊下を行く客などに話し声は聞こえないだろう。時間が早いだけ、式場の係員が少ないのも気分的に、幸いだった。
「そうなんです。で、とりあえず自分で思いださなきゃいけないだろうって。日にちと、式場だけは覚えてたんで、何か手掛かりがつかめるんじゃないかと今日こちらにおうかがいしたわけなんです。」
森本は何でもないことのように、事務的にスラスラと説明した。千尋はそんな風に横で話す森本の顔をみながら、少しホッとした。やはり、ついて来てもらってよかった。一人では不安で、うまく説明できたかどうかもわからない。
 
 この受付に来た時、六月十九日に挙式予定の池野ですけれど、当日の確認を、ということで台帳をくってもらったのだ。ところが、係員は台帳を何度かくっている様子だったが、しばらくして受付にあるパソコンで検索し始めた。係員は少し戸惑いの色を見せてから、
「申し訳ございませんが…」そう切り出した。「池野さま、六月十九日にご予約をいただいておりません。」
 そう言って係員はパソコンの画面から顔をはずし、前に並んですわっている二人の顔を交互に見た。千尋は驚きを隠せず体を乗り出した。「そんなはずはないんです、ここのはずなんです。」
千尋が食い下がるので、係員はもう一度パソコンに向かい画面を操作した。しかしやはり、返事は、「ございません」ということである。「式場をおまちがえなのではないですか。」
と相手が不審の顔をするので、横から森本が、
「日にちを間違えているかもしれないので、池野で検索してもらえませんか。」
と口を挟んだのである。そこで係員はさらに不審の色をみせた。
 それもそうには違いあるまい。普通自分の結婚式の日にちを間違えるはずがないのである。しかも日取りが十九日で今日は十三日、まして会場なども、間違えるはずがない。係員はまじまじと二人の顔をみつめた後で、失礼ですが、どなたかお探しですかと尋ねた。それで千尋はドキリとしたが、まさか自分を探しているともいえずに下を向いた。森本は思わずギロリと係員の顔を見たので、係員は、いや、と戸惑うように笑ってから、
「時々ですけれどね、結婚詐欺にあわれた方で、そういう方がいらっしゃるんですよ。式場も日にちも決まっているはずが、実は全部相手のウソだったっていう…」
 それで結局森本は千尋の事情を説明せねばならなくなったのである。自分は会社の上司で、彼女は昨日仕事の帰りふとしたはずみで記憶喪失になってしまった。とりあえず思い出させなければならないので、本人の記憶にたどって探しに来たのだと告げた。
「失礼ですが、身分証明書か何かお持ちですか?」
係員は森本に尋ねた。森本はカバンから名刺入れと免許証を取り出すと、相手の前に差し出した。
「ああ、『ミル』さまですか。先日取材にいらっしゃってましたね。ああ、そうですか、あなたが代表取締役…」
係員は名刺を両手で受け取って、それから急いで立ち上がると、両手を脇にピッタリつけた。つられて森本も立ち上がり、相手の「失礼しました。」と頭を下げるのに、「いやいや、こちらこそ名乗りませんで」と頭を下げた。
「今調べますので、しばらくお待ちください。」
そして係員がもう一度せわしくキーをたたき始めると、パソコンの作動する音がして、ややあってから、
「あ、ございました。」
「え? あった?」
声を発したのは森本の方である。
「ええ、ございました。池野千尋様。平成九年六月十九日にご予約でございます。」
「平成九年というと…」
「去年ですね。」
係員は二人の方を見て、意味もなくにっこりと笑った。千尋は森本と顔を見合わせてから、
「あの、それで、相手の人はなんていう…」
「相手の方ですか? えー、ヨシモトコウジさま…あ、データを打ち出しましょうか。」
「ええ、お願いします。」
係員はマウスを動かして何度かクリックした。横にあるプリンターがブーンと音を立てる。ややあって印刷が始まると、二人は息を飲んでそれが打ち出されるのを待った。
 打ち終わると、係員はプリンターから紙を切り取って二人にはいと差し出した。
「三日前にキャンセルになってございます。」
係員はそつなくそう告げた。千尋が、
「何でキャンセルになったんでしょう。」
そう尋ねると係員は相変わらず愛想のよい顔で、
「さあ、私が担当したわけではございませんので…係のものを呼んで参りましょうか?」
千尋が森本の顔をのぞき込むと、森本はチラリとこちらを向いた。しかし係員は即座に、ですが、と言葉を続けた。
「こういうケースは珍しくないんですよ。間際になってキャンセルっていう…。その場合、キャンセルされた方もたいがい理由ははっきりとはおっしゃいませんし。まあ、たいがい、どちらかがいやになったとか、考え直したいとか、そういう理由ですけれどね。」
係員の顔は、やはりニコニコと笑っている。愛想笑いが板について、もしかしたらこれがこの人の地顔ではないかと思うほど、その顔は崩れなかった。
 
 式場横のテラスが喫茶店になっている。森本が「ちょっとよって行こう」というので、千尋はそれに従った。振り返ると、ホームページで見た通りの教会が背後にそびえている。受付や喫茶室はその手前横に位置していて、奥手に披露宴会場があるらしい。中央には噴水、それを囲む格好で車をつけられるロータリーの石畳、取り囲む芝生の庭、広い敷地を取り囲むかっこうで鬱蒼とした樹木、めぐらされた高いレトロな金柵の向こうに車道――どこか覚えのある風景だった。
 森本が店員にホット二つと注文すると、二人は手頃な椅子に腰掛けた。千尋がさっき係員から手渡された紙を広げると、それにもう一度目を通し始めた。
「四ツ谷医科大学付属病院勤務、吉本広二、三十歳。」
「覚えてる?」
千尋は首を横に振った。千尋はじっとその紙をみつめながら、
「何であたしの職業欄と住所欄は何も書いてないんだろう。」
「え? 本当に?」
森本がのぞき込むので千尋はそれを彼に渡した。目の前の白いテーブルの上にコーヒーが二つ運ばれてきて、二人の目の前に置かれたが、どちらも手をつけようとはしなかった。
「携帯の番号は書いてあるじゃないか。」
「携帯の番号?」
「だってそうだろ? 090って…」
「そうなの?」
「職業欄と住所欄がなくっても、別におかしくないよ。結婚で仕事やめる人もいるし、結婚前から一緒に住んでる人もいるし…」
「そっか…」
千尋はがっかりと肩を落とした。せっかく手掛かりがつかめると思ったのに、自分の住んでいた所さえわからない。手掛かりは、相手の男性の住所と勤め先。しかし、これも…
 千尋は左手の薬指をみつめた。
「あたし振られたのかな。」
「へ?」
「だって、そうでしょ? こんな未練ったらしく指輪してるんだもん。」
「いや、わかんないよ。まだそんな…」
「あなた知ってるの? この相手の人。」
「え?」
「だって、あたしの会社の上司なんでしょ?」
「いや…」
森本はすわっていた椅子の背もたれに体を預けて足を組んだ。それからカップに手をつけると、「飲みなよ、冷めるよ」と千尋にも進めた。
「僕らまだ出会ってから、一年もたたないんだ。」
「え?」
「だから、君の昔のことはそんなに知らないよ。これは本当のことだけど、」と森本はそこで言葉を切って、コーヒーをすすった。「君が結婚する予定だったなんて、初耳だ。」
千尋はポカンと口を開けて、森本の顔をみつめた。それからがっかりと肩を落とすと、右の親指と人差し指で両の目頭を押さえた。
「じゃあ」テーブルの上に視線を落とした。「あなたが知ってるあたしの過去も、結構最近のことだけなのね。」
森本は千尋の気落ちした姿をマジマジとみつめると、
「まあ、そうがっかりせずに」
突然、千尋は勢いよく顔を上げた。それから森本に手をさしだして紙を受け取ると、持っていたカバンの中にガサガサとしまい込んだ。
「あたし行ってみます。」
「行くって、どこへ?」
「この結婚するはずだった人の所に会いに。何か…もしかしたら振られたのかもしれないけど、とりあえず今のあたしはあの日のあたしじゃないんだから、それはしょうがないとして、何とかして、自分を探さないと…」
千尋は立ち上がった。
「送って行くよ。」
森本がそう言うと、千尋は右手を森本の方に向けて、
「いえ、これ以上は、ご迷惑かけられません。」
「へ?」
「だって、幾ら土曜日でも、会社の上司じゃないですか。」
森本はそんな千尋の顔をまたマジマジと見上げた。すると千尋は、
「じゃあ。」
と言って立ち去ろうとした。
「あ、待って。」
と森本が声をかける。何ですか、と振り向いた千尋に、チャリンと何かを投げてよこした。受け取って手のひらを見ると、
「部屋の合鍵。今日もうち帰ってきなよ。」
「え、でも…」
「だって君、自分がどこに住んでるか、知ってるの?」
う、と千尋が声をつまらせると、
「必要なものは、だいたい君のバックに入ってるし、路線図も確か持ち歩いてたはずだよ。ただ、その所在地わかるの?」
「き、ききながら行きます。それに…。」
千尋は必死の抵抗を試みた。
「なんとなく、地図はわかるような気がします。」
森本はじっと彼女をみつめ、彼女もじっと森本の目を見返した。しかし卒然、彼がにっこりと笑うと、
「つまり、君の過去だけが消えてるってわけだ。生活に必要なことは大概覚えてるのにね。まあ、いいよ。困ったことがあったら電話しといでよ。僕の携帯の番号は、君のバックに入ってる携帯に入ってるはずだから。」
「あ…」
彼女は改めて自分の持っている鞄をみつめた。ショルダーではなく、手提げだ。肌色地にチェックの…
「うちの場所はわかるね? さっき出て来るとき最寄駅も教えたし。迷わず帰っておいでよ。」
森本がそう声をかけると、千尋はふと我にかえって、
「そんな、これ以上お世話になれません。」
「君自分んち一人で帰って誰かから電話があったらどうするの。誰か訪ねてきたらどうするの?」
「か、家族に何とか…」
「いないよ。」
千尋はギクリとした。それから急いで言葉を探して、
「あ、一人ぐらし、か、何か…」
そう言うと、森本はにっこり笑った。
「とにかく心配だから、今日は僕の所に帰ってきなさい。そしてちゃんと報告すること。いいね。」
千尋はしばらくそんな森本をみつめていたが、張り詰めた空気から放たれるようにふと息をつくと、
「何でそんなに優しいんですか?」
尋ねた。
「優しい? 僕が?」
「そうじゃ、ないです?」
「僕はいつもこうだよ。」
そう言ってまた、にっこりと笑った。彼女は首をかしげたまま彼をみつめていたが、ペコリと頭を下げると、テラスを後にした。
 
 式場の門の横にある警備室で一番近い駅とその行き方を訪ねてから、地下鉄への道を歩いた。腕時計を見ると、十一時少し前だったから、どこかでご飯を食べなければならないと思った。歩きながら鞄の中を探ると、財布が目についた。お金が十分入っていることを確認すると同時に、キャッシュカードなども確認した。銀行のキャツシュカードが二枚、クレジットカードが一枚。鞄の中にはまだ色々と入っているようだが、歩きながら確認するのも危ないので、駅について電車に乗ってからにすることにした。
 季節はまだ六月の半ばなのに、今年は異常なほど暑い。千尋はジリジリと照りつける太陽に、思わず汗をぬぐった。
 駅は歩いて三分もしないうちに到着した。構内への階段を降りると、公衆電話を探し、鞄の中からさっき式場の受付でもらった、予約時のデータを広げた。電話は切符販売機の横にある。構内は閑散としていて、人影もまばらであった。外の熱気を幾分か遮り涼しいのが救いだ。千尋は鞄から財布を取り出し、さっき見たテレホンカードを取り出すと、受話器をとった。相手の男の自宅に電話をかけてみよう、と思ったのだが、カードを差し込んだ所で躊躇した。
 振られたんじゃないの? と頭をよぎる。もう、一年も前に――。
 しかし、そんなことで躊躇している場合でもなかった。番号を順番に押して行く。カチャリと音があって、突然、やかましい音で、「この電話は、現在、使われておりません。」という言葉が耳に響いた。
 千尋は愕然とすると同時に、少し安堵した。耳の向こうで、「もう一度番号をご確認の上、おかけなおし下さい」という言葉が響いている。千尋は受話器をかけた。それからもう一度受話器を取り、カードを入れて同じ番号にかけてみる。結果はやはり同じだった。彼女は、電話の前にたたずんだまま、電話番号をかえたのか、あるいは引っ越したのかもしれないとぼんやり思った。
 気を取り直し、電話番号案内にダイヤルを合わせた。住所と名前を告げる、が、電話の向こうの案内係は、「お届けがございません」とこたえた。引っ越したということですか、と千尋が尋ねると、相手は、さあ、こちらではどうともお答えいたしかねます、と答えがかえってきた。
 おそらく、引っ越したのだろう。でもよく考えたら、病院に勤務しているのだから、自宅にいくよりも勤め先に行った方がいいのではないかと思いついた。土曜日ではあるけれども、大学の付属病院だし、もしかしたら勤務しているかもしれない。
 それで彼女はもう一度時計を見た。慌てて受話器をとり、相手方の勤め先の電話番号を押した。相手が出る。「すいません、内科の…」と言いかけて、直接本人に会いに行った方がいいのではないかと思った。電話口で上手く話が運べるかどうか、自信がないからだ。それで、千尋は電話口の女性に病院の位置を尋ねた。電話口の相手は、「外来の受付は十一時半まで、面会は二時からですよ」と親切に教えてくれた。彼女は礼を言うと、電話を切った。
 切符を買う。券売機の上の路線図を見ると、渋谷で山の手線に乗り換えて、新宿で中央線に乗り換えるらしい。
 改札を抜けた。
 電車はややあって来ると、彼女は乗り込んだ。都心に行く土曜日の車内ではあるが、座ることができた。早速回りの目を気にしながら、自分の鞄を探った。
 まず携帯電話。電源は入っている。電話帳を押さえてみると、一番に、ジタク、と出て来た。あ、と思って思わず発信してみる。が、地下でつながらないことに気がついた。それで次に、モリモトケイタイと出てきて、会社の番号、それから、知らない名前が幾つか続いた。地下鉄を出てから自宅に電話をかけてみよう、と思ったが、一人暮らしでは出ても留守電だろう、そう思いついて、やめた。
 携帯を膝の上において、さらに鞄を探っていく。さっきのお財布、化粧ポーチ――そうだ、今日は化粧してないんだ、ということに気がついた。しばらく顔を押さえて呆然としたが、化粧品はもしかしたら自宅ではないかと思いついた。服も着の身着のまま。今日森本の部屋に帰ったら、自宅に化粧道具や着替えなどを取りに帰らねばならないと思った。――いや、いつまでも森本の世話になっているわけにはいかない。もし適うなら、自分の部屋に帰ろうと思った。家に帰れば、ここ最低一年だけでも「記憶のかけら」が残されているはずだ。最近のことを先ず思い出さなければ、仕事もできないではないか。
 とりあえず、どちらにせよ今日は、このまま、この顔で行かねばならない。せめて、駅についたらトイレで口紅くらいつけようと思った。
 それから、さらに鞄を探る。ハンカチ、ティッシュ、カードケースがあって、そのカードケースを開けると、中に運転免許証を発見した。うれしくなって取りだす。自分のデータが書かれてあった。
 昭和五十年四月二十三日生まれ。免許の取得は平成八年十二月十四日となっている。現住所の所で、千尋は息を飲んだ。でも覚えがない。都内の住所だから、ここがきっと今住んでいる所だろう。帰ろうと思えば、森本に頼らずとも帰れるかもしれない。本籍地――本籍地の住所に覚えがなかった。静岡県とあるから、静岡出身なのだろうか。何かしっくり来ないものがあったが、調べていくうちにわかるのだろう。
 千尋は昭和五十年を一九七五年に置き換えて、一九八八からひいた。現在二十三歳と二カ月。では、去年、八つ離れた人と、二十二で結婚するはずだったのだ。
 千尋は運転免許証の写真をしばらく眺めた後、また鞄の中に手を伸ばした。どうやらこれが最後らしい。ノートのようなものにあたった。取り出してみると、スケジュール帳のようだ。めくって見た。どこか他人のものをのぞくような変なスリルがある。住所録の欄を見ると、知らない名前がポツリポツリと書かれている。森本の名前を発見した。しかし、住所は書かれた上からバツがつけられている。ああ、この人あそこに引っ越したんだ、と思ったが、現在の住所はめくってみてもなかった。変にも思ったが、書き忘れかと、気にとめずに、メモの方へとかえっていく。記憶にない――たぶん仕事のためのものだろう、いろいろと覚え書きが残されている。よくわからないので、予定表をめくってみる。パラパラとめくって今月に行き当たると、ドキリ、とした。
 十九日に「結婚式」――スケジュールには、はっきりと、そう、書き込まれていた。