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June Bride

 


    九、

 

 催眠治療で記憶を取り戻した千尋に、その帰り道、車の中で森本は、次のようなことを確認した。
 父親が実際死んだのは、病気のせいであって、千尋が死ねばいいと思ったせいじゃないんだよ、と。すると千尋は、視線を落としたまま、
「うん、わかってる。あたしは、何もしなかったし、お父さんは、癌になっても仕方ないほど飲んでたもの。生活も不摂生だったし。死んでも仕方ないの状態だった。でも」
とそこで千尋は言葉を切った。
 その日は雨が降るのでもなく、今年に多いどんよりとした天候で、また蒸し暑かった。時々薄日が差す中を、二人は仕事場へと向かっていた。
 千尋はドアに体をもたせかけ、内側に肘を預け頬杖をついていた。
「実際あたしが死なせた、とか、そういう問題じゃないのよ。あたしが、そう思ってしまったこと、それが問題だったんだと思う。」
車を運転しながら、森本は千尋にチラリと視線を投げた。千尋は視線を下げたまま、その表情はよく伺えなかった。千尋はそのまま目を閉じると、ふとまた目を開けて体を起し、森本の方へと向いた。
「ほら、子供って無知だから。」
森本に向けられた千尋の目が、同意を求めるように、鈍く輝いている。森本は運転に集中しなければならず、その千尋の目から視線をはずした。
「癌なんて言われても、よくわかんないのよ。不治の病だとか、言われても。もしかしたら、その癌だって、あたしが願ったから、なったのかも、しれない、って、そんなことまで、考えられちゃう。」
千尋は体を元の姿勢に戻した。森本がその姿に目を配ったが、彼女はもう伏し目がちになってしまって、その色が読めない。
「お父さんが死んでから、ずっと、あんなこと、思い出しもしなかった――ううん、考えないようにしてた。」
 それで、千尋は黙ってしまった。森本はしばらく運転に気を取られていた。  
 千尋が動く気配もないので、彼女の方に視線を投げると、千尋はドアに体を預け、頬杖をついて目を閉じている。森本は千尋に、
「千尋」
呼びかけた。
 返事がないのでもう一度、「千尋」と呼んでみる。
「眠ったの?」
と問いかけてみたが、返事はなかった。
 それでそのまま、また運転に集中しようと、前を向いた。
 眠ったはずの千尋の唇が、微かに、震えた。

 車を西へと走らせながら、森本はあの日、千尋が記憶を喪失してしまった時のルートを思い出していた。あの日は仕事の取材の帰りで、東京環状を南に走っていたのだ。
 珍しく遠出だった。
 それでも、あの道は、千尋を乗せて何度も走ったはずなのに、あの日は過剰反応だった。その過剰反応も、それまでの治療の経過のせいだったかもしれない。
 あの時は確か、福生市に入って、それから左手に横田基地が見えていた。もう少しで、市街に入る、というところではなかったろうか。森本は、千尋が悲鳴を上げて取り乱したので、一度車を脇に停車させて、千尋の様子を見たのだ。彼女はその時はもう気を失っていたが、脈も正常だったし、呼吸にも異常は認められなかったので、そのまま千尋のシートを倒して家への道を急いだ。
 その時になって森本は初めて、常喜医師への連絡をどうするべきか考えながら、この女の中に眠って、そして苦しめる「過去」の存在を思った。たくさんの二十三歳の女性がいながら、なぜこの女は選ばれて、こうして苦しい思いを続けているのだろう、と。
 千尋の父親が亡くなった後、彼女の母親は二年足らずで池野正博と再婚している。池野もまた二度目、前婦とは離婚したのだった。
 森本は池野夫妻が亡くなった後、誰が千尋の身元保証人になったのか不思議に思い、探してみた。両親が死んだとき、千尋は十八とはいえ、未成年だったし、何かにつけ身元保証人が必要だったのではないだろうか。
 そう思って、池野の経営していた病院に訪ねて行くと、その人は案外簡単にわかった。
 池野の古くからの友人で、弁護士をしている男だった。両親の死後、病院の事後処理をしたのも、池野の家の事後処理をしたのも、そして千尋の身元保証人になったのも、この有馬という弁護士だった。
 森本が東京に事務所を持つ有馬を訪ねて行ったのは、確か先月も末のことだったかと思う。千尋には内緒にして、一人ででかけて行った。十八から後の記憶も、足取りも、有馬なら知っているかもしれないと思ったのだ。
 予め電話を入れていたためか、待たされることなく、事務所の奥の部屋に、事務の女性に案内された。相手の男はドアと向かい合わせになった机のイスに腰かけていたが、立ちあがって森本に目の前にある応接セットのソファを勧めた。壁際の本棚にはぎっしりと本が並んでいる。右手に窓があったが、どこか薄暗かった。
 男は紳士だったし、また、物腰も柔らかだった。養父池野氏の高校時代の同級生だというから、五十四、五だろう。長身で、仕立てのいいスーツをそつなく着こなしていたので、会ったとたんに森本は正装してくるのだと思ったものだった。
 どうぞ、と愛想よく勧める有馬の姿は、好印象だったが、どこか冷たい感じがした。
 有馬は森本と向い合わせて腰を下し、「千尋ちゃんはどうですか、元気にやっていますか?」などと尋ねた。
「ええ、相変わらずです。」と答えた後に、早速、実は、と切り出した。
 千尋は記憶喪失になっているのだが、十八から後のことがどうしても思い出せない。それで何か手がかりがないかと思って訪ねてきたのだ、と説明した。
 有馬は説明を聞きながら、ほう、とにこやかに話をきいていた。前かがみになって、いかにも熱心に、という感じで首をうなずかせた。しかし森本には、有馬のその取ってつけたような動作が、すこぶる不快だった。どこか人を小ばかにしたように感じて、腹立たしかった。
 一応のことを話し終えてから、森本は、「それで」と切り出した。
「それで、池野夫妻が事故にあったあとの千尋の足取りをしりませんか?」
そう尋ねた。
 有馬はしばらくにこやかな表情のままで、森本の顔をみつめたが、すぐに真顔になって、フンと鼻をならしてうつむいてしまった。うつむいたその顔をよく見ると、どこか笑っている。
 それで森本はカッとなった。森本の空気の変化に気付いた有馬は、顔を上げ、森本の顔を見つめると、
「いいですか、あなた――森本さん。よくきいていただきたい。」
森本は不快な気持ちを抑えながら、有馬を見つめ返した。
「確かに、私は身元保証人です。池野に頼まれましたからね。私に何かあったら、千尋ちゃんのことは頼む、と。しかし、です。」
有馬は一度話しながら首を振ると、森本の目をみつめ、
「彼女は自分から、出て行ったんですよ。いや、出て行ったんじゃない、誰の前からも、消えてしまったんだ。」
森本はうかがうように、有馬の顔をみつめかえした。有馬のペースにジレンマさえ起しそうだった。
「いいですか。彼女は、あの事故の後、葬儀が済んでから、我々の前からいなくなってしまったんです。―――そうだ、通っていましたね、高校に。その高校さえ、卒業したのかどうかもわかりません。」
「え、それはどういう…」
「つまり、千尋ちゃんは、逃げたのですよ。居辛くてね。」
「なぜです?」
「当然でしょう。」
森本は眉根を寄せて有馬の顔をみつめた。どうしてこの男は、こんなにもったいぶった話し方をするのか。まるでこちらの出方を、試しているようだ。
「池野と、千尋の母親が、どんなふうに結婚したか、ご存知ですか?」
「さあ?」
そこで男は一つため息をついた。
「千尋の母親は、池野の病院の事務で働いていましてね、パートタイムですよ。いや、きれいな人でした。あの年になっても。千尋ちゃんとはまた違った、可憐な優しさみたいなものがありましてね。――その美貌の彼女を、院長だった池野がみそめた――、いや、それは、許されざる恋だった。」
え? と森本は、声にならずに顔を上げた。その森本を、有馬は前かがみになった姿勢で見上げると、さっと姿勢を正し、両手をこちらにむけて、
「いや、わかっています。わかっているんです。悪いのは、悪いのは、池野なんですよ。あいつが一番、悪いんです。いいじゃないですか、道ならぬ恋でも。いいんですよ、道ならぬ恋で。でもそれならそれで、そのまま、通せばよかったんです。何も、長年連れ添った婦人と別れる必要はないんです。どこに、その、パートタイマーと結婚して、どこに何のメリットがあるというんです。方や、大病院の娘、方や、どこの馬の骨ともわからない――いやいや。」
アッハッハッハッハと有馬は笑った。
「失礼。いや、失礼。いや、しかし、本当に池野は悪い男です。おかげで、婦人の父君から病院への融資は打ちきられる、おまけに、信じていた片腕の男に、ええ、病院の裏帳簿をつけていた奴ですがね、金を持ち逃げされて、病院自体が傾くのに、五年とかかりませんでしたよ。本当に、池野も運が悪い。」
 森本には、有馬の話している内容にも驚いたが、話し方さえ異常に感じられた。彼は笑みがちに話を続けている。が、それが、そんなに楽しい話題だろうか。
「一つお聞きしてもよろしいでしょうか。」
森本が言葉を切り出したので、有馬は真顔になって目で森本に言葉を促した。
「千尋の母親と、池野氏が関係を持つようになったのは、千尋の元の父親が亡くなる前ですか、後――、いや、」
有馬の表情にみるみるうちに笑みが浮かんだので、森本は言葉を切った。その表情で、答えを聞く前にもう全てがわかる。森本は思わず有馬から顔をそらせて、視線を脇へと投げた。
「ご質問は?」
有馬は森本に問い返した。
「ご質問はもう、よろしいのですか?」
有馬の言葉に、森本は、「ええ、結構です。」と答えた。
「池野が死ぬ前の病院の負債というのは、大変なものでしたよ。私のところにもよく相談に来ていましてね。資金繰りが――、思い出してごらんなさい、今から約五年前、平成四年ですよ。バブルがはじけて、日本が沈没し始めた頃だ。ベッド数はまあまあだが、大病院というわけでもない。先行きは険しかった。険しかったが、乗り越えようと思えば、乗り越えられないわけでもなかった。少なくとも、我々はそのつもりだった。しかし、池野は死にました。死んでしまったんですよ、あの、最愛の奥方と共に。」
森本は、淡々と話す有馬の顔をみつめた。有馬は目に笑みを浮かべている。
「女というのは、時として、とてもシビアな夢を見る。それはそれは、恐ろしい生き物です。あなたも気をつけられたがいい、――いや、そう、千尋ちゃんとご結婚されるんでしたな。いや、それでは、覚えられていたらいい。女は、とても、恐ろしい生き物です。いいですか? 千尋の母親は、夢を見たんです。とても、幸福な夢を見たんです。そういう意味では、少女のように幼かった。少女のように純潔だった。
 彼女は、とても幸福な、美しい夢を見た。だから、その夢を、夢のままで終わらせたんですよ。もう、悪夢は見たくない――とね。」
有馬の顔から、あの笑顔は消えていた。どこか消沈したような、一人の男の素顔がチラチラと見える。
 森本はそんな男の顔をみつめながら、二人の事故の話を思い浮かべた。曲がり角を曲がりきれず、高速のまま壁に激突したのだ。二人ともほぼ即死で――、
「心中、ですか?」
「事故ですよ。」
「でも」
「事故です。」
男は低い声で、はっきりとそう言った。
「でなければ、何のために、やつは死んだんです。」
森本は、男の顔を凝視した。何のために池野は死んだのか――、そんなことを言っているのだろうか?
「何のためです?」
森本は有馬に問い返した。有馬は、前かがみになった体を起すと、
「だから、言ったじゃないですか。女の、夢のためだって。」
森本は顔をしかめた。
 この男は何を言いたいのだろう。池野夫妻が死んだのは、事故だといいたいのか、自殺だと言いたいのか。事故だと言い張るなら、なんでそこに「女の夢」が関係あるというのか。
 森本は頭の中のごちゃごちゃを振り払うように、首を横に振った。
「千尋はその後、――そうだ、負債はどうなったんです? 病院がかかえてた負債は。あの病院は今、もう名前が変わってしまって」
有馬は森本の言葉をきいて、静かで深いため息をつき、また前かがみの姿勢になった。
「池野と、その婦人は、高額の生命保険に入っていましてね、池野名義の負債は、大方この保険でまかなわれました。もう、一円も残っていませんよ。」
「生命保険――?」
森本はその時、瞬時にことの成り行きを理解した。有馬はそんな森本の様子を気にとめるふうもなく、話し続ける。
「千尋ちゃんはラッキーでしたよ。二人が生命保険に入っていなければ、高額な負債は一体誰が返したんです?」
「自殺でしょう?」
「事故です。」
「でも」
「事故ですよ、あれは、事故だったんです。いいですか? 私は先ほどいいましたね? 一生かかって返せない額ではなかった、と。あなたは、あの事故が、生命保険のための、事故を装った自殺だと言いたいんでしょう? でもどうして、わざわざ自殺する必要があるんですか? 事故ですよ。」
「女の」
「事故です」
「女の夢のためだと言ったのは、あなたじゃないですか。幸福な生活に、母親は自分で、娘を残して行くのにいるだけの後始末を、自分で――。」
「森本さん、いいですか?」
有馬は森本の顔をみつめて言葉をさえぎった。彼は太い声をかすれさせて、
「だから、事故じゃなければ、いけないんですよ。」
 森本は有馬のその言葉に、息を飲んだ。
 そうだ、つまり、こういうことだ。
 借金のためではなかった。
 何かの責任をとったわけでもなかった。
 手に入れた幸福を、母親は、自分で閉じたのだ。
 しかし、それで、千尋はどうなる? 遺された千尋はどうなると言うのだろう。
「千尋はこのことを知ってるんですか?」
森本の問いに、有馬は首を横に振った。
「存じません、直接彼女におききください。」
「両親が死んだ後の、千尋の消息は?」
「それも、わかりません。家も処分して消えましたし、一応財産を始末した時に、残った金を彼女に渡しました。贅沢をしなければ暮らしていけたはずです。音大を受験すると言っていましたが、その後どうしたのか、高校もちゃんと卒業したのか、それさえわからないのですよ、私には。あれ以来、あの子も何も言ってきません。だから、その後のことは、彼女にしか、わからないのです。」
 森本はソファに腰かけながら、両手を組み合わせて考えた。
 千尋があれほど語った幸福な日々は、もしかした作りものだったのではないだろうか。養父と母親が必死で守り通した、まぼろしではなかったのだろうか。
 でもそれはある日突然閉じられてしまった。失われたのは、最愛の母と、父と、そして幸福な日々――、さらにおそらくは、知らなくても良かった作り物の――。
「お役に立てないようで、残念ですが…」
有馬は立ち上がった。 
 森本も不承不承に立ち上がろうとしたが、そこで、有馬は思い出したというように、
「そうだ、人づてですが、その後チラッと、千尋ちゃんの噂を耳にしましたよ。」
森本はハッとして、有馬を見た。立ちあがった彼と、有馬の視線がぶつかる。
「千尋ちゃん本人と確かめたわけではないんですよ。ただ、福生で、彼女によく似た人が、ロックバンドに参加してるのを、見た人がいるそうで…。」
「ロックバンド?」
「ええ、インディーズレーベルでしたかな? 意外な取り合わせで、あまり本気にはしなかったんですがね。」
「はあ」
森本は思わず首を傾げた。
「では、お話はこれでよろしいでしょうか」
有馬は森本に尋ねた。知っていることは話したから、出ていけ、という合図なのだ。
「あ、ええ、結構です。ありがとうございました。」
森本は、ドアの方へと進もうとした。と、有馬が「あ」と声を上げたので、森本は振りかえる。すると、有馬は口元に手を当てていたのだが、ふと我に返り、
「いえ、何も。どうぞ、お幸せに。」
最後に有馬は、そう嫌味でない笑みを作り、森本を見送った。

 

 東京環状を北上しているうちに、福生市に入った。市街を抜け、右手に横田基地が見え始める。運転しながら左手を見てみたが、一体あの時、何が千尋の心にささったのかわからない。横田基地を抜けると、すぐ福生市外に出てしまうので、森本は市外に出る前にUターンをした。そして、左手に横田基地をみながら、景色を探ったが、心にかかるものが何もない。東福生駅まで走ったところで、森本は路上駐車し、後ろの座席から地図を取り出した。
 問題は、千尋がどれぐらいの間恐慌状態を起していたか、つまり、それを見てから、悲鳴を上げるまでに、どれぐらいの時間がかかったか、ということなのだ。
 もし、それが福生市に入る前にあったのだとしたら、森本の見当はずれ、ということかもしれない。森本は最初、もっと簡単にわかるものだと思っていた。行けばわかるものだと。しかし、やはり千尋を連れてこないことには、埒が開かないらしい。
 森本は、もう一度出直すことを考え、事務所への道のりを思い浮かべた。が、ふと、有馬弁護士の言葉を思い出した。
 福生で、千尋がバンドのメンバーだったらしい、という話だ。
 きいた始めは、あまりにそぐわないので、まさかとは思ったが、考えてみれば、千尋はピアノも声楽もやっていたはずだから、ボーカルだってキーボードだって出来るはずなのだ。
 そして、福生というこの町並みの中に溶け込むと、そぐわない、という思い込みが、払拭されるのだった。
 森本はふと思いついて、後ろの座席に手を伸ばした。そして、ノートパソコンを手繰り寄せると、胸ポケットから携帯電話を取りだし、ノートパソコンに携帯電話を接続した。ノートパソコンを起動させ、インターネットエクスプローラーを立ち上げる。立ち上げたところで、すぐに検索画面を開け、「福生」と打ち込んだ。
 ややあって「福生」の項目が上がる。検索結果を見ながら画面をスクロールするうちに、福生を拠点に活動するバンドの、インディーズレーベルがあることがわかった。
 それをクリックする。が、女性の所属した、それらしきものが見当たらない。
 もう一度検索画面に戻って、「チヒロ」とキーワードをたし、検索する。が、検索結果にはゼロの表示が出た。
 森本は画面を見ながらしばらく考えてみたが、福生を拠点とするバンドのインディーズレーベルがあるのなら、ライブハウスも幾つかあるのではないだろうかと思った。そこできいてみたら、四、五年前に活動していたバンドの中に、千尋がいたのを目撃した人がいるのではないだろうか。
 森本は路上駐車したまま、エンジンを止めた。それから、市街のライブハウスもしくは、CD店を探すために、路上に出、道を市街の方へと渡った。
 一番最初に目に入った店に入り、ライブハウスを尋ねた。それは知らないと言われたので、CD店をきいてみると、福生駅前に大きいのはありますよ、と言われた。
 それで森本は、福生駅の方を目指して歩いて行った。しばらく歩くと汗がにじむので、車を回した方がよかったか、などと思う。
 福生駅前でCD店を探し、森本は店内に足を踏み入れた。
 店内では流行りの洋楽をかけながら、月曜の昼間らしく客もまばらで、店員も暇そうにカウンターの中にいた。
「すいません。」
森本は、カウンターの中にいるあごひげを生やした青年に声をかけた。青年は、――といっても、もしかしたら森本と年はそう変わらないかもしれない。彼は、森本に気付くと、「いらっしゃいませ」と声をかけた。
「この辺にライブハウスは、ありますでしょうか。」
「ライブハウス、ですか?」
「ええ、まあ、」
「ああ、ありますよ。えー、一番近いのは、この前の通りをまっすぐ行って、」と体を乗り出し、手を外に向けたが、ふとその動きを止めると、「――ちょっと待ってください、誰のライブですか?」
そう言って、青年はカウンターの中をごそごそやりだした。
 森本はその手を制して、
「え、いや、誰かの演奏をききにきたんじゃないんです。その…」
青年は腰をかがめてカウンターの中に手をつっこんだままの姿勢で、森本の言葉に注意を向けた。
「人を探しに来たん、です。その、四、五年前…に、ここらの、バンドに入って、活動してた、かも、しれない、人なんですけど。」
森本の口調は、どうもしどろもどろで自信がなかった。青年は、背を正して森本をみつめると、
「四、五年前ですか?」
と問い返した。
「はあ。」
森本がそう言うと、青年は首を傾げ、店内の時計を見ると、
「でもこの時間じゃライブハウス開いてませんよ。また、出なおした方が…」
「ああ、そうですね。」
森本は訳もなくホッとして、やはりもう一度千尋を連れてくるべきだと思った。それで、「じゃあ、いいです」と言おうとしたところで、青年が、
「誰です?」
ときいてきた。
 森本はまた、意味もなくギクリとして、「え?」と言うと、青年はもう一度、
「誰です? 四、五年前でしょう? 写真見るか、名前きいたらわかるかもしれない。」
森本は驚いて、青年の顔をまじまじとみつめた。思わず笑顔になって、「ああ」と声を発すると、
「いや、ええ、え、女の子で、その当時は二十歳になるかならないかなんですけど、『池野千尋』という名前なんです。多分キーボードか」
「ああ!」
森本の言葉も途中で、青年は突然声を上げた。
「スリーオーのチヒロでしょう? キーボードやってた子ですよね?」
青年の顔がパッと明るくなってそう答えたので、森本は思わず心の中で、「マジかよ」とつぶやいた。
「スリーオー?」
「そう、スリーオー。ゼロが三つでスリーオーですよ。スロットマシーンみたいな名前でしょ? ボーカルのやつだけがプロデビューしたんですよ。結構いいとこまで行ったんですけどね、突然事故で死んじまって」
 青年は明るい口調で話していたのに、ふいに言葉の調子を落とした。
「え? 死んだ?」
「ええ、そうです。事故だか自殺だかよくわからないんですけどね、そこ、国道十六号ぞいのバラックをねぐらにして、ゲリラライブやったり、もちろんライブハウスでもやってたんですけど、すっごい人気でね、東京のプロダクションからお声がかかったんだけど、声がかかったのが、ボーカルのエイジだけだったもんで、他のやつらやっかんじゃって、最後は空中分解って感じでしたよ。」
「え、それ、いつのことです?」
「空中分解ですか?」
「あ、ええ。」
「空中分解は、そうだなあ、エイジが東京移る前だから、三、四年前じゃないかなあ。エイジデビューした後、Sometimeてバンド名でやってたんだけど、知りません?」
「いや、」
「へー、結構いい線行ってたのにな。」
「で、その後千尋はどうなったんです?」
「え? チヒロ?」
青年は話が変わったので、しばらく考える様子を見せてから、
「さあ、しばらくこの街にいたみたいだけど、いつの間にかいなくなっちゃいましたよ。まあ、チヒロのいなくなった時期と、エイジの死んだ時期が重なるんで、もしかしたらチヒロがやって逃げたんじゃないかって話もでたんですけど、警察の話じゃ、どうみても事故だっていうんで」
「え、なんで死んだんです?」
「さあ、薬の飲みすぎとかって」
「薬?」
「うん、やつ眠れないってんで常用してたらしいんだけど、なんか誤って飲みすぎたらしいんですよ。で、」
「それ、いつの話ですか?」
「うーん、二年ぐらい前かなあ。そうか、もうそんなに経つか、二年前の…」
「まさか」
「え?」
「六月十九日じゃあ、」
「ああ、うん。確かそのへんでしたよ。ああ、そうかあ、じゃあもう、三回忌になるんだ。」
 青年の言葉に、森本は思わず右手で顔を覆った。唇をかむ。
「冗談…」
青年は、森本のそんな姿を見て、フッと息をつくと、
「あんた、チヒロとどういう関係? 彼女今でも元気にしてる?」
「あ、ああ、」
森本の様子を見ながら、彼は両肩を軽く上げると、
「その様子じゃ、チヒロとエイジがどういう関係かも」
「察しはつくよ。」
森本は相手の言葉を切った。
 そうだ。
 つまりそういうことだ。
 恋人が、失われたのだ。
 千尋の恋人が失われてしまったのだ。
 六月十九日は、母親の幸福の記念日だった。その日に、恋人は、東京から戻ってきて、そして、事故で死んでしまったのだ。その後千尋は、新宿のクラブミリオンに流れた。「マグダラのマリア」は、一体何の罪をつぐなっていたのか。母親と同じ、医師との結婚は、直前になって、事故で、消し去られてしまった。
 記憶とともに―――。
 夢だ。
 それは夢がいい。
 母親が見たはずの、幸福の記憶、それは、夢でなければいけないのだ。
 神よ――、と森本は祈った。
 どうかお救いください、どうか、お守りください、どうか――これは現実ではないのだと――。

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