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 緑青の海へ

 ――to the sea of "rokushou"――

 


 

 

 どうしてあの時、死んでおかなかったのだろう―――

 

 


 ― 1 ―


 朝からずっと雨が続いていた。
 春の雨はしとしとと長い。朝から降り続く雨は、降ったりやんだりを繰り返し、でも、それは小雨のまま、大ぶりになることはなかった。一体、何日降り続いているのか、いつから降っているのかさえ、もう大西には見当がつかなかった。見当がつかない、というよりも、もうそんなことはどうでもいいことだった。
 屋上よりの六畳の和室に寝転がったまま、窓越しに外を眺める。窓の外にはすだれがかかっているので、眺めるというには、ろくにものが見えない。それでも、そのすだれごしに、小さな空が見える。隙間からのぞく空は、灰色だった。
 家の中は、小雨のためか、雨の音さえきこえてこない。この部屋の電器は引越しの時のまま取りつけていないので、自然、部屋の中も暗かった。
 元より、明かりをつけようとさえ思わなかった。部屋を、明るくしようとさえ思わなかった。
 薄暗い部屋の中に寝転がって、畳の感触を確かめる。昼飯も終わったから、次は晩飯だと思った。晩飯は何を食べようか。
 不思議なことにどんなときでも腹は減るものだと思った。
 そんなに動いていない、ただ、一日家の中ですごしているだけでも、腹が減る。
 生きているだけで、人間は腹が減るのだと思った。
 本でも読もうか。
 何か、人間らしい活動をしないと、腐ってしまう。
 人間らしい活動をしないと、それは人間ではないと認められたような気になってしまう。
 だから、人間らしい活動をしないと。
 人間の活動をしないと。
 しないといけないのに、体が動かない。
 大西は、また、窓の外に目をやった。
 電話の音。
 久しぶりに電話のベルが鳴ると思った。ここ数日、電話の音はならなかったのに。
 大西は、電話のベルが鳴るのをきいていた。電話のベルは、五回なれば自動的に留守番電話に替わる。大西は無意識に五回、ベルの音を数えた。留守番電話に替わってから、相手は応答録音の声をしばらくきいて電話を切ってしまった。
 やや間があって、また鳴り始めた。
 また五回鳴って、今度は留守番電話に切り替わったとたんに切れた。
 短気な人間だと思った。
 誰だろう、と興味が出て、電話まで歩いていった。ディスプレイの表示をたぐると、知らない携帯電話の番号だった。
 大西は間違い電話かと思って、また、部屋に帰って寝転んだ。
 最後に電話を受けたのは、大学の研究室の教授からだったと思う。あれは、何日前だったろう、一週間前だったろうか。病院での大西の欠勤が続いて、一度電話があった。電話の向こうの声は、Mくんから聞いたよ、という出だしで始まった。
 Mくんからきいたよ、きみ、復帰のメドはたちそうですか、というものだった。
 大西は、教授の言葉に、しばらく何も答えなかった。
 研究室に戻ること、病院に戻ること、それが、復帰なのだ。
 復帰する必要が、あるのだろうか。
 大西はそれさえ疑問だった。
 あの日、小夕実の葬式から帰った翌日、病院や研究の穴を空けて申し訳ないと、翌日はいつも通り出勤した。三日、いや、五日、だったろうか、次第に、大学にいくことが苦痛になり始めた。勤務して、患者を診るのが苦痛になり始めた。研究をするのが、苦痛になり始めた。
 ひどく体がだるくて、一日だけ休むつもりが、次の日もいやになる。
 また次の日も、いやになる。
 第一、何のための研究なのか。
 誰のための、治療なのか。
 ふと、世界が遠くなって、大西は大学と向き合うのがひどく苦痛になった。
 何日かたったころ、Mから電話があり、概略を説明した。本当に概略だった。ただ、いやなのだということだけ、何がいやなのかということだけ、説明した。Mは、大西の心や体を心配して電話をかけてきたのではない。共同研究の、大西の分担分が進まないのを心配したのだ。病院の穴があいて、負担が他所に回るのを心配したのだ。しかし、この、無機質きわまりないパートナーの、無機質きわまりない応答は、普段の大西なら腹を立てそうなものだが、このときばかりは不思議にありがたかった。
 Mは、じゃあ今は教授にそう報告しておくよ、と言って、電話を切ったのだった。
 それから、しばらくして、教授から電話があったのだった。
 質問に大西が答えないでいると、教授はもう一度、大西くん、と声をかけた。声をかけられたので、大西はわかりません、とだけ答えた。
 本当にわからなかったのだ。
 それ以前に、復帰する必要があるのだろうか。
 なぜ復帰する必要があるのだろう。
 生きていくためには、今の仕事を続けなければいけない、とはおぼろげにはわかっていた。それが、大学の研究室である必要もない。ない、が、自分の帰る場所は、今はもうそこしかないような気もしていた。何より、ことを中途半端で投げ出すのが許せなかった。
 だからといって、あそこで何かして、何の意味があるのだろう。
 教授は、受話器の向こうでしばらく考えるふうだったが、重い声で、では、きみの勤務日と研究状況は、Mくんたちとも相談してこちらで決めておくけど、いいですか、ときいてきた。
 大西は、特に深くも考えず、「はい」とだけ答えた。
 自分が他所に迷惑をかけて返ってくる自分へのペナルティより、そのために無理を押して大学へ行くことの方が彼には苦痛だった。
 教授がもう一度、一任してもらえますか、との問いに、また大西は「はい」と答えた。
 電話の向こうにやや沈黙ができたあと、彼はおもむろに、大西君、と声をかけた。
 大西が儀礼的に「はい」と返事をすると彼は、「飯田くんを紹介しようか」と放った。
 大西はギョッとして目を見開いた。飯田くんというのは、精神科の飯田教授のことだろう。激しくブルッ、ブルッと身を震わせると、上ずった声で、「いえ」と声をあげた。
 呼吸が激しくなるのがわかる。それでも彼は、意地でも、答えなければいけないと、このとき思ったのだ。
「いえっ、いえっ、大丈夫です。しばらく、しばらく家で、安静にしてれば、きっと、元に戻ります。きっと、職場に復帰できますから。せ、先生にはご迷惑をおかけしますが、どうか、よろしく、お願い」
 その後は、震えて声にならなかった。そして、相手の言葉を待たずに電話を切った。
 大西はその日から、電話には出ない。
 メールはチェックしたが、返事はどれにもまだ出してはいなかった。
 誰かに、頼ってしまうのが恐ろしかった。
 何かに、依存してしまうのが恐ろしかった。
 だってあの子は―――
 大西は、あの日を振り返りながらぼろぼろと涙がこぼれた。
 だってあの子は、何にも頼らずに逝ってしまったじゃないか。何にも頼れずに逝ってしまったじゃないか。
 それなのにどうして、自分だけが、救われることが許されるだろう。
 六畳の間に寝転んだままの大西の瞳から、大粒の涙がこぼれた。たまらずに胸がつぶれそうだった。そのことを思い出すたびに、激しい絶望感だけが胸をしめる。
 ぼくは救えなかった。
 救えなかった、ぼくは、あの子を―――
 いくつもいくつも、サインはあったはずなのに、さがせば、答えは見つかったはずなのに、見ないふりをして、救えなかった―――
 なんて、ずるい。
 ずるい、人間だ。
 大西は寝転がったまま、両手で頭をつかむと、目をぎゅっとつぶった。それでも涙がこぼれてきて、たまらなく苦しい。
 はあっと大きく息を吐き出すと、突然、家のチャイムが鳴り響いた。
 彼はギョッして玄関の方角に目をやった。
 それから息をひそめ、動かないようにじっと縮こまった。
 誰もいない。
 この家には誰もいない。
 そう心の中でつぶやいていると、もう一度チャイムがなる。
 ややあって、何度もチャイムが鳴り始めた。大西はそのチャイムの音を聞きながら、なんてしつこい乱暴な人間だろうと思った。一体誰だろう、こんなことをする人間は知り合いにいただろうかと思ううちに、玄関の扉がバンッと大きく音を立てて、大西はドキリとした。バンバンバンという音がしばらくなって、「大西くん!」という呼び声が聞こえてきた。
 あまり覚えのない声だった。
 大西はその声をしばらく考えていた。
 どこかできいたことのあるような気もする。でも、どこでだったか思い出せない。
 本人を見ればいいだけの話なのだが、誰にも会いたくなかった。
 ところが、声の主はあきらめず、また大西くんと声を立てた。
「大西くん、いるんだろう、いるのはわかってるんだ。あけてくれないか。俺だよ、坂城だよ、この家に前住んでた。」
 大西は、それでやっとすべてを得心した。どうりできいた覚えのある声だし、知り合いには珍しく乱暴なはずだ。
「大西くん、悪い、開けてくれないか。おれ、この家の天井に置き忘れたもんがあって」
天井に置き忘れたときいて、大西は思わず天井をみあげた。天井とは、天井裏に置き忘れたものだろうか。そんなところに一体何をおくのだろう。
 仕方なしに大西は立ち上がった。用事がすんだらすぐに帰るだろう。また来られるのも面倒だ。第一今でないと、扉を蹴破ってでも入ってきそうな気さえする。
 廊下に出て玄関の扉を見ると、確かに坂城の背の高い鍛えられた体が、シルエットで映っている。玄関の向こうの主はもう一度「大西くん」と呼んだ。それで大西はようやく「今開けます」と返事をした。廊下を歩いて玄関に下りると、彼は鍵を開けた。カチリという音を聞きつけたのか、大西が扉を開けると、同時に向こうも扉に手をかけてひきあけた。坂城の体は、外の空気とともに湿った空気をもたらした。
 いくぶん大西より高い位置にある彼のその顔を見上げると、坂城は大西を見てギョッとしたような顔をした。ギョッとされて大西もはっと我にかえった。でも、何にギョッとされたのかピンとこない。そう思っているうちに坂城は玄関の中にずいと踏み込み、それから、「お邪魔」といって靴を脱いで廊下にあがるとそのまま歩いて行った。
 大西が遅れてついていくと、坂城は奥の部屋まで歩き、押入れの襖の前で立ち止まった。
「開けてもいいか?」
と尋ねるので、大西は首を縦にふった。それで坂城は勢いよく押入れの襖を開けると、襖と柱に手をかけ、足を押入れの棚にかけて、「よ」という声とともに押入れに乗り、押入れの天井にある五、六十センチ四方に四角く間仕切った板を押し上げ、そこに頭をつっこんでいった。それから押入れの壁に足をかけ、天井裏に消えると、まもなく足が戻ってきて押し入れから抜け出した。
 手にもっていたのは、テープレコーダーだった。
 なんでこんなものを天井裏に、と思いながら、大西はその坂城の手の中にあるテープレコーダーをみつめた。ちょうど手に乗る程度の大きさのものだ。音がなると録音されるという、会議録などを採るときに使うアレだろう。
 坂城の手をみつめていると、坂城の声が「お前どうしたんだ」と尋ねた。
 はっとして、大西は坂城の顔を見上げた。首を傾げようと顔をゆがめる間もなく、坂城が次の言葉をはいた。
「死人みたいな顔してるぞ。」
 大西は、何か次の否定の言葉を言おうとして、自分が激しい動揺に襲われているのを感じた。こんなに突然、どうしてこの男に、そんなことを指摘されねばいけないのか。
 大西は、唇を真一文字に結んだまま、坂城を見上げるのが精一杯だった。それなのに、大西の動揺をよそに、坂城はまだ言葉を続ける。
「ちょっと、Mにきいたんだ。例の、前に言ってた女の子が亡くなったんだって? 婚約者だとかいう」
大西は、目を見開いた。唇が、激しくわななきそうになるのがわかる。
「な、に」
また、涙がこぼれおちそうになった。大西の中で、激しい感情の波が、湧いて、ひこうとするのに、ままならず、制御不能にさざめいた。頭の中が突然冷たくなったかと思うと、体がいやに軽くなる。そのまま、壁に体を預け、がくがくと崩れ落ちた。
 それを見た坂城は、呆気にとられてしばらく言葉がでなかった。それから、思い出したように腰をかがめると、畳の上で半分倒れたような格好になっている大西の手をとった。大西の目から、大粒の涙がこぼれている。坂城は思わず、
「そんなに、好きな女だったのか?」
と尋ねた。
 その言葉に、大西の動きがとまった。
 スキナオンナ?
 もし、本当に好きな女だったら、ここまで後悔しないだろうと大西は思った。あれは、義務だったから、それらしい感情がなかったから、だから余計、さいなまれるのだ。愛しているのなら、救いようがあっただろう。愛していたならば、あそこまで放置しておかなかっただろう。愛していたならば。愛していたならば!
 大西は、涙をぬぐいながら起き上がった。それから、正しく坂城の前にすわりなおすと、坂城は見ないまま、
「帰ってくれないか。」
と重い口調でいった。
 坂城は、しばらく黙ったまま、大西の前で中腰の姿勢を保っていた。しかし、やがて腰を浮かして立ち上がると、部屋の入り口まで歩いていった。部屋から出て行く気配がないので、大西が見上げると、坂城は部屋の入り口でドアを開けたまま、大西を見下ろしていた。
「お前、そんなんなら、劇団に見にこないか?」
大西は答えずに、真面目な顔の坂城を見上げた。
「大学の方には行ってないんだって? ずっと家に閉じこもってるんだろう? だったら、劇団に見にこないか? まだ稽古の最中で本番までには間があるけど」
大西は視線をさげて少し考えてから、
「劇団にいって、何になるっていうんです。」
大西がそういうと、坂城は「はは」と笑った。
「まあ、そういうなよ。そりゃ確かに大学と比べりゃ、格はかなり落ちるだろうけどな」
そんなつもりで言ったんじゃない、と、思って坂城の顔を見上げ、大西はその言葉を飲み込んだ。
「夢を見せてやるよ」
この前と同じセリフをはいたと、大西は思った。
「いらない」
即座に返すと、
「遠慮すんなよ」
と坂城も返した。
「遠慮なんかしてない。夢なんか、みちゃいけない」
「少しくらいなら、いいさ。」
この男は、一体なんだろう、と大西は思った。それほど回数を重ねたわけでもないのに、どうしてここまで図々しく出れるのだろう。
「せっかく生きてるのに、死んだようじゃ意味ないだろ。それならせめて、夢ぐらいみろ」
大西は、言葉を返せなかった。顔が赤くなりそうになる、それを、必死で冷静に保とうとしたところに、坂城がじゃあな、と声をかけた。それから部屋をでていった。玄関までたどりついたのか、「お嬢さん、鍵はかけろよ」と余計なことをいって、大西をカッとさせた。しかし大西が廊下に出て玄関をのぞいたときは、坂城の姿は既に家の中にはなかった。
 夢という言葉に、大西は、たぶん過剰反応してしまった。
 まだ、日をおいて現れる、あの女。姿も見ない、声さえきかない、あの、夢の女。
 どうして、あんなものが夢の中に現れるのだろう。ここに来てから、もうあの女は何度現れたか、とてもリアルな感触で、大西に襲い掛かる。
 あれが夢だと思うのに、女は大西をどうもしていないのに、大西の体が全く動かないからだ。おそらく、頭がおきて体が寝ているという状態におちているのだろうと思う。女は激しくて、優しい。その夢は、今の大西が見てはいけない夢なのだ。見てはいけないのに、毎夜のように見てしまう。拒絶することすら許されない。
 大西は玄関まで歩いて、坂城に言われるままに鍵をかけた。
 そして、食堂に入り、流しまでいくと、水道の蛇口からコップに水をくんで飲んだ。
 体の芯から、熱くなる。
 こらえきれなくなる熱がこみあげるのを感じて、大西は思わず口を抑えた。
 おかしい―――おかしい。
 あれは、夢の女なのだ。きっと、実体のない女なのだ。自分の中の何かが、あんな形であらわれるだけなのだ。
 それなのに、ひどく体に熱はこもるし、ひどく禁忌なことにとらわれているような気がする。
 女は一体、何を象徴しているのか。
 大西は、流しに手をかけながら首を振って、冷静になろうとした。気がつけば、ゆらゆらと激しく心がゆらめく自分がいる。
 こんなことではいけない―――こんなことではいけない。
 大西は、流しの中にある水を張った、流し用の桶の中をみつめた。すると、水面は静かにゆらいで、何か水底から姿を見せている。
 指。
 白い指だ。
 白い指が水面をつっきり、大西の方に手をのばす。
 タクロウ―――
 声が響く。
 タクロウ―――助けて――――
 大西は思わずのけぞって、後ろに倒れた。
 違う―――
 大西は逃げるように、這って、涙をこぼしながら、真ん中の六畳の間を抜け、さっきいた部屋へとたどりついた。そして、頭を両腕で抱え込みながら、流しの方をみつめた。しかしそこにはもう、何の形跡も残っていない。
 大西は両手で頭を抱えうずくまったまま、畳に顔をうずめた。涙が、畳の上にこぼれ、畳を静かに濡らしていく。
 許してくれ。
 俺を、許してくれ―――
 許せ―――

 大西は、だらりと部屋の中に横たわったまま、晩御飯は何にしようかと考えていた。どんなにつらくても、腹だけは減るものだと思った。
 たいして動いていなくても、生きているだけで腹が減る。それはこの体を生かしている限り、当然のことだろう。
 生かし続ける限りは、腹も減る。腹が減る以上は、腹を埋めるための収入がいる。
 この当たり前のことを続けるために、大西は社会に「復帰」しなければいけないのだ。
 生きなければいけない。死ぬことすら、大西には許されないような気がしたからだ。
 小夕実が生きたから。
 その後十年以上も、彼女は生きたから。
 
 その夜も、女は現れた。
 気がつけば女は、いつも甘い匂いとともに現れる。
 それが、何かわからず懐かしかった。何の香りか、乳の香りか、大西には判然としなかった。
 頭の中はぼんやりしていて、相変わらず体は動かないし、いつのまにか女が部屋にいる。夢ならば、顔くらい想像できてもよさそうなのに、その顔さえ思い浮かばない。ただ、体の他に髪の感触が――黒髪の冷たい、つややかな感触が、大西の体にまとわりつくことがあった。
 近頃の女は優しかった。
 優しい、と、大西には感じられた。
 大西が、泣くからかもしれない。
 その日も彼女は大西の上にまたがっていた。そして体を倒し、大西の胸の上に、己の乳房をのせた。
 豊かな乳房を、体ごとなでつけた。
 女はそれから、大西の頬にそっと、口付けた。右に、左に、愛撫する。舌がのぞいて、愛撫とともに大西の顔をなめる。顔から、首筋、胸元――
 ハアッと大西はため息をついた。
 女は不思議なことに、声すらあげない。いや、大西に、きこえていないだけなのかもしれない。
 つめたい髪が、大西の体をなでて、女の体は起き上がった。
 やわらかい尻の肉の感触が大西の体に触る中で、その肉の奥にある骨の感触があたる。
 いやに、リアルな夢だ。
 リアルな夢だと思っていること自体が、何かおかしいような気もする。でも、覚めているわけでもない。
 やがて、女の手が、細くて華奢な手が、大西を直接つかんで、ゆっくりとさすりはじめた。
 なぜかここ数日、大西はこの快感にひきこまれてはならないような気がしていた。これは、禁忌なのだ。してはいけないことなのだ。
 夢だからいいではないか、とも思う。夢で女に抱かれようと、妄想で女を抱こうと、男なら日常茶飯事で誰だってしていることじゃないか。
 けれども、この快感には酔ってはいけないような気がした。理由は、はっきりとわからない。わからない、けれども、いけないと感じる以上、抗おうとする。体が思うようにならないのに、抗おうとする。でも、大西の男が目覚めて、抗うことが許されない。
 それを知ってか知らずか、女は、大西を攻める。
 今日も、大西を中に、ゆっくりと入れた。
 しっとりと包んだ。
 締めた。
 声も立てずに上下する。
 熱い、苦しい、苦しい、熱い――これは、快感なのか――痛みの伴わない、苦痛なのか――思い通りにならないこれは、オタノシミなのか、それとも――――
 ハアッ
 女は大西を柔らかに攻め立てる。
 のぼりつめる。
 熱い、熱い、やめてくれ、ヤメテクレ、ヤメ、テ、ク、レ
 誰だ、お前は、一体誰なのだ。何のために、俺をせめる――それは、慰めのつもりなのか、それとも、あざけりのつもりなのか――オ、カ、サ、ナ、イ、デ、ク、レ――それは、復讐か、誰への、復讐か――
 大西が弾む息の中で、涙があふれた。
 そうだ。
 この苦痛――この苦痛、覚えがある――そうだ、こいつ、この女―――
 ショウコだ―――!
 ボロボロと、目の端から涙が伝い落ちた。大西の中で、祥子のあの日の声が蘇る。
 サユミ―――!
 あの日、小夕実の母親である祥子は、発狂したように見えた。村瀬は、混乱しているだけだと言ったが、大西には、発狂しているように見えた。
 壊したのだ。
 何かが壊れたのだ。すべてが、壊れた。誰のせいなのだ。俺のせいなのか。それとも、あの女のせいなのか。
 罪、だ。
 幾つもの罪が横たわっていた。これが、快感か。すべてを侵す、罪は、快感か――何が、タノシイ、自由にならないこの世界で、一体、何が、愉しいのだ―――!
 
 女は大西の苦痛をひきとって、大西の上にのったまま、頬に、首筋に、口付けた。体までやわらかくて、温かくて、やさしかった。涙の先の、耳に、口付けて、舌で、目の端まで、跡をたどる。
 頼む。
 大西は、意識の遠くなる中で、つぶやいた。
 優しくしないでくれ。
 これじゃあ、情けなさすぎる。これではあまりに―――
 胸の中まで涙があふれる。
 けだるい体が眠りにひきこまれる中で、大西は、Mの冗談話を思い出していた。彼は、いつだったか、Mに尋ねたのだ。なんで「M」って呼ばれるようになったんだい、と。
 するとあのとき、Mは冗談めかしてこんなふうにいった。
「あっちのサイズがMなんだよ」
顔色変えず、無表情でそういったので、もしかして本当にそうなのかと思い、
「みんなで比べたのかい?」
と聞き返すと、彼はあきれたような顔で、
「冗談だよ」
と返した。
 今思えばそうだ。
 そんなあだ名のつけ方があったら、かなり悪趣味で怖い。
 自分でそんなことを真面目にきくなんて、今考えたらおかしい。でもあのとき、Mが顔色一つ変えずにああいうから、もしかしたら本当かと思ったのだ。そういう雰囲気だったから―――
 大西は眠りにひきこまれるその時、そんなことを思い出して、フフと小さく笑った。
 胸の中は、まだ、涙にあふれたままで――――

(つづく|冒頭


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