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時をはらむ女

 

 (続き)

 その日の子供会のラジオ体操に紀美子は来なかった。家に帰って朝ご飯をすませると、私は紀美子の家へと出掛けていった。玄関先にはチャイムがあるが、そのチャイムを鳴らして出てくるのは二回に一回だった。だから私は玄関の開け放たれた戸の所から思い切り「おはようございます。」と叫んだ。返事がない。おじさんはもう会社に出掛けた後で、出てくるとすればおばあちゃんかおばさんだろう。もう一度「おはようございます。」と叫ぶと、洗濯をしていたのか裏の方からおばさんの「はーい。」という声が聞こえて来た。裏戸から手ぬぐいで手をふきふきおばさんが現れた。
「あら、波広君、どうしたん。こんな朝早うから。」
おばさんは土間を歩いて来ながらそう言った。
「ボク、おばちゃんに謝らんなんことあるねん。」
「まあ、改まって何やの?」
「あのな、あのな、ボクな…。」
「ふんふん。」
おばさんは優しい人だった。最初、私は言い出しにくくて俯いてしまったが、見えない自分の母親の威圧を背中に感じ、勇気を振り絞った。
「あのな、紀美ちゃんに楠の上り方教えたん、ボクやねん。」
瞬間、いつも優しいおばさんの顔が豹変するかと思った。ところが意外にも、「ああ…。」と、おばさんは軽く笑っただけだった。
「何や、波広君、ワザワザそんなこと言いに来てくれたんか。構へん、構へん。紀美子が楠に上りに行ってたんおばちゃん知ってたんやで。」
「え?」
私は顔を上げた。
「危ないから登ったらいかんで、言うのに、登ってへんわて言うて上って落ちたあの子が悪いんやから、波広君は別に気にせんでいいんやで。」
 私はふっと胸のつかえが取れたような心地になった。何だ、おばさんは知っていたのだ。
「良かった。ボク、紀美ちゃん死んだらどないしよって思てん。」
「まあ、そんな大層な。大丈夫や。大したことあれへんから。」
「でもお母ちゃんが傷残ったらどないするんやて…。今朝のラジオ体操かて来てへんかったし…。」
「傷も大したことあれへんのや。おでこの擦りむいたのと、顎の切れたのに包帯充ててるだけで、傷も残らんそうやし。今朝行けへんのかて、別のことですねてただけなんや。そや…。」
おばさんは何か思い出したように中を向いた。
「波広君、お赤飯好きやったやろ。」
「うん。ボク赤飯好きや。」
「おばちゃんとこ今朝炊いてん。良かったらちょっと持って帰り。」
「うん。おばちゃんとこ何かいいことあったんかあ?」
「ふん、ちょっとな。」
そう言っておばさんが台所に入って行った。しばらくすると平皿に赤飯をのせてまた玄関に出てきた。と、突然、その後を追って顔に包帯をつけた紀美子が飛び出して来たのだ。そしておばさんの腕にしがみついた。
「お母ちゃん、いや! それ上げたらいや!」
紀美子が気違いじみた声を出すので、私は呆気にとられた。
「何言うてんの。お赤飯ちょっとおすそ分けするだけやないの。」
「それでも何でもいやや!」
皿を必死で落とさないように持つおばさんの腕をそれでも必死に引っ張った。
「ちょっと、紀美子離しなさい。紀美子!」
おばさんが叫ぶのと同時に、紀美子は手の上の皿を払いのけてしまった。皿は、コンクリートを敷き詰めた土間の上に叩きつけられてガチャーンと音を立てて割れた。
「何するの! この子は!」
怒鳴りつけるおばさんに、紀美子はさっと身をひいた。
「お赤飯なんか嫌い! 波広ちゃんも嫌い!楠もみんなみんなみんな嫌いやー!」
紀美子は包帯だらけの顔をクシャクシャにしながら叫び、家の中へと走り去った。呆然とする私と、落ちてしまった赤飯に当惑するようにおばさんは口を開いた。
「ごめんね、波広君。あの子今気立ってんねんわ。紀美子いてるて知らんかって…。」
突然の事に私は呆然としてしまったが、その時になってようやく、紀美子のとった行動と、言った言葉が胸に響いてきたのだ。
 波広ちゃんも嫌い! 楠もみんなみんなみんな嫌いやー!
 おばさんは「気にせんとき。」と言って笑った。しかし、やはり紀美子は私を恨んでいたのだ。しかも、あれだけ強く。何よりもそれが一番悲しかった。紀美子の顔を傷つけたことよりも、紀美子に嫌われたということが、一番悲しかった。
「波広君、ごめんね。おばちゃんお赤飯継ぎ直してくるわ。」
「いい。」
「え?」
「もういい。お赤飯いらん。」
そう言って私は玄関から外に向かって駆け出した。
「ちょっと、波広君? 波広君!」
家の中からおばさんの声が聞こえてくる。私は駆けた。そして、家には帰らずに、真っすぐ楠の元へと向かったのだ。
 紀美子を傷つけた楠にもかかわらず、夏の午前中、しかもすっきりと晴れている日の楠は相変わらず美しかった。私が一番好きな、一番美しい姿の楠だ。神社の境内は蝉の声が響き渡っている。木陰になった楠の根本に近づくと、やはり土が少し乱れていた。紀美子はここに落ちたのだ。
 私は楠の元にたたずみながら、ひどくとり残された気分を味わっていた。それは、なみのいない小屋を覗く時に感じるのと同じものだった。そして、またなみに会いたくなった。もう、二カ月も会っていないのだ。もし会えたら、その時の自分の気持ちを思い切り話して、そしたらすっきりして忘れられるのに。
 私は楠の幹に顔をうずめた。頭を何度も幹にこすりつけた。でも、楠はただ堅いだけで、黙って何も言わない。
「当たり前やないか。ただの木やねんから。」
私の目から涙があふれた。心がどこに行っていいのかわからなかった。なみに会いたい、なみに会いたい、ただその思いばかりが心の中で反復し続けた。
 それから私は、来るはずがないと分かっていながら、立て続けにあの小屋へと通った。暑い最中でも、あの小屋の中はいつもひやりとしていて気持ちが良かった。なみと初めて出会った頃、回りにあった田圃はまだ土をならしてあっただけであったが、もうその頃は青い稲穂の海が広がっていた。風がふくとザーとそれが一面音を立てて揺れる。日蔭になった小屋の中にその風が吹き込むと、蝉しぐれの中でも清々しい心地になった。
 それで、何日ぐらい通い始めた頃だったろうか。紀美子のあの事件があった日から、多分四、五日頃経ったぐらいだったと思う。私は連日小屋に通っていたが、その頃はいつもあの小屋の戸は開け放しになっていたのに、その日に限ってぴったり閉じられていたのだ。私はあの小屋の入り口が見える所で、遠目にそれを確認すると、ドキリとした。まさかの期待に胸が高鳴った。そろそろと足音を立てないように近づき、それでも中にいるのが農家の人だと困るので、そっと戸をノックした。すると、前と同じように、小さくなみの「誰?」という声が飛んで来たのだ。
「お姉ちゃん? ボクや!」
「波広! 波広か?」
私は狂喜した。なみが再びこの小屋に現れたのだ。私に会いに来てくれたのだ。
 しかし、以前と少し違っていたことがあった。私が戸を開けようとすると、すばやく中から戸が開けられたのだ。そこに現れたなみは、以前のなみとは違っていた。上は白い半袖のブラウスを着て、下は裾がひらひらとした長いフレアースカートをはいていたのだ。あれだけふくらんでいた腹はどこかへ消え去ってしまい、もはや妊婦服でもなかった。髪はいつも三つ編みをしていたのに、肩の辺りでバッサリ切り、化粧をして、全く別人のようになっていた。前とは全く違うなみの様子に、私は戸惑いを覚えた。あの独特の不思議な雰囲気が、少し薄らいだように思えた。そこにいたのは、二十歳代のどこにでもいそうな女の姿だった。
 私が気後れして小屋の前に突っ立ったいると、先に中に入ったなみが、
「どうしたんや。」
と私に声をかけた。私はそろそろと中に入って行った。中は日蔭で相変わらず心地良かったが、何かいつもと違う所に来たような気分だった。
「何や、波広。今日はおとなしいなあ。」
「そ…、別にそんなことあれへん。ただ、お姉ちゃん…。」
「あたしが何?」
中にはもうざぶとんもゴザも用意されていなかった。なみは奥の壁にもたれて立ったまま私に話かけた。
「違う人みたいや。」
なみは少し驚いたように改めて私の顔を見た。それから、
「そうかあ?」
そう言って微笑んだ。
「子供産んだよってにな。」
何だか変な感じだった。なみの雰囲気が、受け答えが、前よりずっと静かなのだ。この二カ月の間に、なみはずっと大人になったように見えた。私は入り口の所で、なみに話そうと思っていたいろいろなことを頭の中で復習しながら、でも話し出せないでじっとなみを見ていた。
「でも、今日波広に会えて良かったわ。あのままで、お別れになるのはいややったからな。」
私は思わずなみの顔を見た。
「お別れ?」
「そうや。今日で波広とも、ここともお別れや。」
「お別れって、お姉ちゃん、どっか行くんか? ひ…引っ越しでもするんか?」
私は体中の血が引いていくのがわかった。
「引っ越しとは、ちょっと違うなあ。あたしが一人で、ここを出て行くんや。」
「出て行く?」
「そうや。だから、波広に一言お別れを言いたくて、今日はここで待ってたんや。」
私は何が何だか分からなくなった。小屋の中を意味もなくキョロキョロと見回した。が、何もあるわけがない。私の動揺に反して、なみは異様な程落ち着き払っていた。
「ボク、お姉ちゃんの言うてること全然分かれへん。お姉ちゃん、お姉ちゃん、いつも、自分のこと何も言えへんねんもん。」
私はようやくそれだけ言えたのだった。それでようやくなみは感情の動きを見せた。
「ごめん、ごめんな、波広。でも、あたしは自分のこと言うわけにはいけへんかったんや。あたし自身、言うのがいややったんや。ごめんな、ごめん…。」
「お姉ちゃん、どこ行くん。何で出て行くんや。」
ふと感情の乱れを見せたのに、私のこの質問になみは毅然とした表情を見せた。
「どこ行くかは、言われへん。でも、あたしはもう行かんなんと思ったから、出て行くんや。」
「何で? 何で出て行かなならんのや!」
思わず大きい声を出してしまった。私にはなみの言うことが分からなかった。私はその時になって始めて、この得体の知れない女の存在の重要さに気付いたのだ。そして、この女を失うことは、私にとって大変な損失になるのだった。もちろん、ずっとあのままあの小屋で密会を続けることは出来ないと心のどこかで気付いていた。しかし、その時はまだ、私にとってなみは必要だったのだ。
 なみは必死の形相をしていた私をじっと見ていた。それから、ゆっくりと口を開いたのだ。
「ここでの私の役目は、もう終わった。」
彼女のこの言葉には既に、どこにも分けいる透き間はなかった。それでも私は納得出来なかった。なみの決心が変わらないということは分かっている。でも私は行ってほしくなかった。
「役目? 役目って何や! オレは、オレは、まだまだまだまだいっぱい姉ちゃんと話さんねんことあるねんぞ! 役目って何や! 役目って何や!」
私はなみにかかって行った。私のその頃の身長は、ちょうどなみの顎の下ぐらいであった。目に涙が溢れる。私が彼女の襟元に顔をうずめ声を上げて泣き出すと、なみは優しく私の頭をなでた。
「波広。あのな、一生こうやって会えるわけちゃうんやで。こんな別れは、一生に何回かてあるんやで。」
「そんなん分かってるわ。」
涙声でそう言うと、なみは私の頭を軽くポンポンと叩いて、両腕で私を離した。
「生意気な口きくくせに、あんたやっぱりガキやなあ。」
「ガキちゃうわ。」
おもしろそうに言うなみに、私は反抗の言葉を吐いた。
「ガキやガキや。」
あははははとなみは笑いとばした。笑い飛ばしてから、なみはじっと私の顔を見た。
「あの人と初めて会ったのも、あんたぐらいの年やったなあ。もう一個上やったか。」
突然、なみは懐かしそうな目で私を見ながら話しをし始めた。
「あの人って誰?」
「あたしの好きな人や。」
「姉ちゃんの好きな人?」
「そうや。」
「姉ちゃんのだんなさんか?」
「違う。」
なみは遠くを見る目をしていた。私の軽い驚きを目にも止めず、彼女は続けたのだった。
「ずっとずっと好きやった人や。でも、ぐすぐすして何とも言うてくれへんかったから、あたしが癇癪起こして、親に言われるままに見合いして結婚したのが、今の人や。そう…。」
私が彼女の言葉を聞き入っていると、彼女は何か思い出したようにふと私の顔を見た。
「あたし、あんたに謝らんなんて思ってん。この前の時に、あんた『楠に会いに行く』て言うたやろ。それであたし『見に行くやろ』て言うたけども…、よう考えたら、あの人もそういう言い方してたわ。『ボクの家の温室のサボテンが待ってるから』。ああいうの、分かる人には分かるんやねえ。最初はこの人何言うてんやろて思たけど。」
なみは愛情たっぷりにクスリと笑った。それからふとまなざしが真剣になった。なみの目は私を見ていなかった。遠くの誰かを思い浮かべている、そんなまなざしだった。
「ああいう所も全部ひっくるめて、私はあの人が好きや。」
私はドキリとした。そして、彼女の顔を見入った。いや、見とれてしまったのだ。そんな女の表情を見たのは初めてだった。みとれながら、私はそんな彼女に感動した。
「この前は、ごめんな、波広。あたしちょっと考えなしやったわ。あんた怒るのも無理ない。あんたの、楠によろしくな。」
そのなみの言葉に、私ははっと我に返った。そうして、紀美子の忌まわしい出来事が頭に蘇ったのだ。
「もう、ええねん。」
私はしょんぼりと肩を落とした。
「もうええって、何がええねん。」
「あの木から、紀美ちゃんが落ちたんや。」
「落ちた? 落ちたって? 紀美ちゃん? 紀美ちゃんって、あんたの隣の家の子やろ?その子が楠から落ちたんか?」
なみは驚き、私の肩をつかんで詰め寄った。私は辛さに目をそらせた。
「そう。ボクのせいなんや。」
「何で。」
「ボクが紀美ちゃんにあの木の上り方教えたから…。」
「それで、その紀美ちゃん、どうなったん?」
なみは深刻そうな顔付きをして私の顔を覗き込んだ。
「大したことなかってんけど、もうあかんねん。」
「何があかんのや。」
「ボク、紀美ちゃんに嫌われたんや。」
「何で。」
「だって、紀美ちゃん、嫌いって言うたんやもん。」
「ちょっと待ち、波広。順序よく話し。何で木から落ちて紀美ちゃんがあんたに嫌いって言うんや。あんたが落としたんか。」
「違うよ。ボクは上り方教えただけやもん。」
「じゃあ、何で紀美ちゃんがあんた嫌いって言うんよ。」
「知らんよ。ボクが朝おばちゃんに登り方教えたって謝りに行ったら…。」
「律義な子やな、あんたも。ワザワザ謝りに行ったんか。」
「違う。お母ちゃんが謝りに行けって言うたんや。」
「ふんふん、それで謝りに行ったら?」
「おばちゃんは気にせんでいいて言うたんやけど、紀美ちゃんが…お赤飯上げたらいかんて言うて…。」
「ちょっと待ち。何でそこにお赤飯が出て来るの。」
「おばちゃんが朝炊いたからくれるって言うたんや。そんで台所に取りに行って返りしなに紀美ちゃんがボクに上げたらいやって言うて、皿を地面に叩き落としてしもたんや。その時に、波広ちゃんも楠も嫌いって…。」
なみは真剣な顔をして私の話を聞いていた。そして、何か考えている様子であったが、私が話終えてしばらくすると、突然「ぶっ。」と吹き出した。それから「くくく」と忍び笑いをすると、堪えていたものが溢れ出すように、突然笑いが爆発した。
「あーははははは、あはははは、あ、一体、どんなすごいことがあったんかと思てたら、あ、あはははは、ああ、はあはあ、ああオカシ。」
なみが腹を抱えて笑うのに、私は思わず呆気にとられた。私は深刻に悩んでいたのだった。本当に本当に、すごくすごく悩んでいたのである。それを、なみに思い切り笑い飛ばされたのだ。
「何がおかしいんや!」
頭に来た。当然である。なみのウケ方は尋常ではなかった。最初の「ヤマンバ」以来のウケ方であった。しかし、あの時とはまるっきり事情が違う。
 私の怒りになみは「ごめんごめん」と謝りながら、目の端に浮いた涙を手で拭った。
「波広、それ、別に気にせんかてええで。」
呼吸を何とか整えると、なみは事もなげにこう言い放った。
「嘘や!」
「嘘ちゃうて。」
「だって、それからずっと朝のラジオ体操にも来ぃへんねんで。紀美ちゃん休んだことなかったのに。」
「それいつのことや。」
「一昨日…のその前…の前。」
「ああ、そやったら、明日か明後日には出て来やるやろ。」
「そおかな。」
「そうや。」
「何でそんなこと分かるん。姉ちゃん、紀美ちゃんに会ったんか。」
「会わんかて分かるんや。」
「何で。何でなんよ。」
「それは、紀美ちゃんのために内緒。でも、あんたもいつか分かるわ。」
「絶対?」
「絶対。紀美ちゃんにしつこく理由なんてきくんちゃうで。きいたら今度こそホンマに嫌われるで。」
私は首を傾げた。何故、なみには分かるのだろうかと。
「分かったか?」
なみは私に念を押した。
「うん…。」
そう不安気に答える私に、なみはおもしろそうにニヤリと笑った。
「あんた、狐につままれたような顔してるなあ。」
そう言ってなみは微笑した。が、ふっと真面目な目付きになった。俯いた視線で静かにため息をつくと、ゆっくり姿勢を正して私の方を向き直った。
「波広はな、まだ知らんことがようさんあるねん。ようさんようさんあるねん。でも、今はそれでいいんや。何時か、分かる時がちゃんと来るからな。」
なみの顔をみつめる私の頭を、彼女はにっこり笑ってポンポンと叩いた。
「でもな、それが、分からんなあかん時に分かれへん時があるねん。そんな時、後で分かってすごく後悔する。でもそういう時に限って、ものすごく大事な事が多いんや。あたしは、結婚した人の子供を妊娠した時、初めて分かったんや。あたしが妊娠したかったのは、この人の子供と違うって。」
なみの顔は、また「女の顔」に戻っていた。その時、私はなみの言葉をただ言葉として、事実として聞いていただけで、そんなに大きな意味があるとは思っていなかった。いや、意味の重要さに気付くだけの知識も経験もまだなかったからだ。それが時を経るに従って、それがどんな意味を持っていたのかが少しずつ分かるようになった。『いつか分かる。』というなみの言葉は、正しくその通りだった。「それが分かった時、あたしはもう、この人のそばにはいられへんと思ったんや。それで無性に、あの人に会いたくなってん。あたしがこれからしようとする事は、人からみたら間違ってることかもしれへん。でも、あたしは自分の心をだましてまで生きていくなんて、ようせえへん。だから行くんや。」
「姉ちゃん…。」
なみの決心は、揺るぎようがない。その時、これだけははっきりと理解出来た。なみは行く。どんなにして引き留めても、この女は行くだろう。
 私がなみの顔をみつめていたが、彼女は私の頭に手をのせ、姿勢をひくくして私の顔をのぞきこむと、
「このまま大きならんだったらええのになあ」
言って笑った。それから、ささやくようなしゃべり方で、
「あたしはな、本当に人を好きになるのは、その人の子供を産みたいと思うことやて思てる。だから男も、その女に自分の子供を孕ませたいと思たら、それが本当の恋なんや。子供を産むということは、喜びも悲しみも、全部二人で背負って行くのと同じことなんや。それが出来へんかったら、波広、いいかげんな気持ちで女に手出したらあかんで。」
「そんなこと言われても、ボク分かれへんわ。」
「そやな」なみはこらえきれず、吹き出した。「今のあんたには難しいわな。」
なみは微笑した。その微笑が、あまりにもせつなくてきれいだったので、今も心に焼き付いて離れない。なみはチラリと時計を見ると、
「さあ…。」
と言ってため息をついた。
「行くんか。」
私がこう言ってなみを見上げると、なみはいつものなみに戻ってニッと笑った。
「元気でな。」
その言葉に、私は泣き出しそうになった。置き去りにされる子供のような気分だった。
「波広、ええ男になりや。あんたちょっと、昔のあの人に似てるわ。素質十分やで。」
なみはそう言って入り口に向かって歩いて行った。目から涙が溢れてくる。溢れてくる。何も考えられず、私は小屋の中でじっとなみを見続けた。
「男の子やろ。もう泣きな。」
戸口で逆行を浴びながら、なみは私に笑いかけた。
「大丈夫や。あんたやったら、ちゃんと歩いていける。」
そんななみに、何か答えねばならないと思った。私は涙を拭いながら、小さく「うん。」とうなづいた。それから、しゃんと立ってなみを見た。男なら、そうしなければいけないと思ったからだ。
「バイバイ。」
なみはいつものようにそう言うと、戸口の所で姿を消した。
 私はじっと、小屋の中に立ち尽くした。回りからは蝉しぐれが押し寄せる。私は追ってはいけないと歯を食いしばったが、たまらなくなって戸口にかけよった。見ると、なみの姿が舗装道路の方に向かって歩いていく所だった。風がザッと吹き寄せてそよぐ青い稲穂の波の中、なみの姿は沈んでいくように、そして、とうとう見えなくなった。
 それきり、なみの姿を見なかった。
 翌年、私は中学に進学した。在学中に私の面倒を見てくれていた祖母が亡くなった。春雨の肌寒い日に、私が家に帰るとほの暗い中、縁側で祖母が膝に編み物を抱いて座っていたのだ。
「おばあちゃん寒いやろ。」
と声をかけて近づくと、既に冷たくなっていた。故人の日頃を思わせる、眠るように安らかな最期であった。
 高校に上がる年、父の栄転で家は引っ越しをし、それを機会に私も外の高校を受験した。母親はそれまで勤めていた病院を辞めて、父親の勤め先のある土地の病院を紹介してもらい、そこで再び看護婦を続けた。
 大学進学と共に、交通の便から家を出て下宿し、就職するとそこの男子寮に入り、今は一人でマンションを借りて勤め先に通っている。大学で家を出てから、家にはほとんど帰らなかった。帰る度に父親と母親は大歓迎してくれたが、元々、そんなに愛着のある家庭ではなかったし、帰りたくなるような気分になる家でもなかった。しかし、いつ頃からだろうか、何か辛いことがあると、私は必ず故郷の風景を思い浮かべるようになった。心が枯れ果て、もう駄目だと思った時も、故郷を思い涙ぐんだ。そんな時、いつも一緒に思い浮かべるのはなみだった。彼女の「大丈夫や、あんたやったら、ちゃんと歩いていける。」という言葉を思いだしては自分を元気づけた。
 今でも、彼女の姿を、眩しい程の最後の笑顔を思い浮かべると、胸にせつない思いが込み上げる。町の中を歩きながら、似たような背格好の人を見てドキリとする事もあった。「バイバイ」と言って別れた彼女ではあるが、あれっきり、一度も姿を見ていない。果たして彼女は、彼女の言っていたあの人と結ばれたのだろうか、幸せになったのだろうか――?
 ただ、あの時、なみが紀美子のことについて気にするなと言っていたが、実際紀美子はあの翌々日にはラジオ体操に出て来た。私も年を経て、紀美子が何故あれだけ感情を高ぶらせたのか、また、なみが何故「紀美ちゃんのために内緒。」だったのか、ようやく理解することが出来た。あの後、紀美子とは何にもなかったように話をするようになったし、たまに喧嘩をしても向こうに非がある場合は彼女の方から謝って来たが、あの件に関しては二度と話に上らなかった。
 なみの事に関してその素性は一切不明であったが、あの後不確実な情報ではあるが手に入れたので一応念のために追記しておく。
 夏休みが終わる前に、私は山辺の友達の家に宿題をしに行ったのだ。一階にある友達の部屋にいると、友達の家の隣にある路地から、おばさん達のヒソヒソと話す世間話が聞こえてきた。
「駆け落ちしはったんやて?」
「そうらしいなあ。最近見かけへん思たら、子供産んでしばらくして出て行ったって。」
「なんや、よしひと君は知ってたんやて? 知ってて行かせたて…。」
「ホンマにぃ。女房逃がして、何考えてんやろねぇ。最近の子はちっとも分かれへんわ。」
「ねぇー。ホンマに。」
「あの、ほら、産み月の前から、ずっと相手の男と逢い引きしてたらしいなぁ。」
「ええー! ほんまにぃ?」
「そうよ、言われてみれば見たなぁ言う人もおるて。ほら、あの、新坂に抜ける山道の途中に小屋があるやろ。汚い古い小屋や、時々子供らが遊んでやる。」
「ああ、あそこなあ。」
「あそこで、会うてたらしいで。相手の男は道路に車停めてな。」
「いやー。」
 本当に偶然だった。ヒソヒソと小さな声で話すので、必死になって耳を澄ませて聞き入ったのだ。友達は「またおばはんらが陰口たたいとる。」と怒っていたが、私はその話を必死になって聞き入っていた。おばさん達は女の名は言わなかったし、なみも旦那の名前は言わなかったので確かではないが、十中八九、あれはなみのことだと思う。おばさんらは腫れ物に触るような随分汚らしい感じでなみのことを喋っていたが、その話を聞いた後でも私はなみを汚らしい女だと思えなかった。そして今でも、あれ程不思議な雰囲気を持った、そして純粋な女はいなかったと思う。
 自分の心だましてまで生きていくなんてようせえへん。
 そう言ったなみの言葉が耳の奥に焼き付いて離れない。
 残念ながら、私はなみのような恋にはめぐりあわなかった。彼女は私にとって今は「永遠に理想の女」と化しているが、彼女程の不思議な魅力はないにしても、彼女のようにどこまでも純粋な女には出会った。あの時、なみが言った言葉も今ははっきり理解出来るが、彼女程、幸せな女はいないのではないか、そして、その彼女に愛された男程、幸せな男はいなかったのではないかと思えてならない。
 最後に、楠の事である。一度は彼の「人格」を否定してかかったが、今ではやはり彼の「人格」を信じている。この年になってと自分でもおかしくなるときがあるのだが、それがやはり私にとって真実である以上、どんなに年をとっても否定出来ない。あの頃の私があって、なみがいて、紀美子がいて、そして楠があって今ここに私があるのだから、楠の人格を信じているのが、一番私らしいと思うのだ。
 もし子供が生まれたら、今度一度、子供を連れてあの故郷へと帰ってみようと思う。多分会えないとは思うが、なみの産んだ子供も大きくなっていることだろう。それはもちろん、緑と木漏れ日の美しい、よく晴れた夏の日のことだ。私は必ず神社の境内の楠に会いに行く。私が挨拶をしたら、きっと彼は相変わらずあの大きな美しい枝をゆらして「よく帰った。」と迎えてくれることだろう。

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(平成4年2〜3月執筆、平成4年10月個人誌発行)

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